63 挫折の「味わい」について

2006.11


 恋というのは、ただ好きな人と会って、楽しくお話したり、お食事をしたりするということだけが「いい」のではなくて、その人と会う約束をしていたのに会えなかったり、会いたくても遠くにいてなかなか会えなかったり、あるいはその人と結局別れてしまって今は思い出だけしか残っていなかったり、というような、いわば「だめ」だった時もまた「味わい」があるのだってことを、この兼好法師っていう人は言っているんだけど、恋愛の経験がまだない君たちには、そんなこと分からないよね。

 でも、これを恋愛というような狭いことではなくて、ぼくらの人生そのものに置き換えて考えてみれば、分かるんじゃないだろうか。早い話が、サッカーだって、野球だっていいけど、試合に勝てばそれは嬉しいけど、そういつも勝ってばかりいられるものじゃない。負けることだってもちろんある。それを、勝ったときしかサッカーや野球をやった意味がないかといえば、そうじゃない。負けた時というのも、また「味わい」がある。「味わい」があるなんていうと、やっぱり無理かな。そんな風にはなかなか思えないで、ただ悔しいものだし、悔しいとかチキショーとか感じるのが、若者ってもので、それを「味わいがある」なんて感じていたら若者じゃない。だからそれを「意味」とか「価値」とかいうふうに置き換えるといい。負けた試合にも意味がある、価値がある、ってことなら分かるよね。

 君たちは、今、この学校にいるわけだから、まだ「試験に全部落ちた」という経験がない。つまりまだ挫折してないんだ。でも、いつか必ず挫折する。大学受験も受かって、上級国家公務員試験を受かったって、それでも必ずいつか挫折する。何万人に一人というような割合で、一度も挫折したことがないなんていう人がいたとしても、最後には「死」という挫折が必ずやってくる。これは間違いないことだよね。

 今の世の中、「勝ち組」にしか意味がないようなことばっかり言うけど、そうじゃないよってことを、兼好法師は言っているわけだ。満月だけがお月見じゃない。雲に隠れた月のほうがよっぽど味があるということは、失敗や挫折のほうが、人生においてはよっぽど意味や価値があるということでもある。そういうものの見方を身につけようと言っているわけだね。その意味や価値を「味わい」として感じることができるようになるのは、これはとても難しいことだから、それは今はまだいい。


これは「徒然草」の一節の授業のひとこまです。

花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。(中略)男女の情けも、ひとへに逢ひ見るをばいふものかは。逢はで止みにし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜をひとり明かし、遠き雲居を思ひやり、浅茅が宿に昔をしのぶこそ、色好むとはいはめ。(徒然草第137段)

▼口語訳:桜の花は、真っ盛りに咲いているのだけを、月はくもりのないのだけを見るものであろうか。(中略)男女間の恋愛においても、ただただ逢って契りを結ぶことだけをいうものであろうか。契らないで終わったつらさを思い、かりそめのはかない逢瀬を恨み嘆き、長い夜を逢うこともできないままひとりで明かし、はるかに隔たったところにいる恋人を思いやり、浅茅の茂っている荒れた住居に恋人と語らった昔を懐かしく思い出したりするのこそ、恋の情緒を理解するものだといえよう。


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