57 「美しい日本語」

2006.10


 今度の文部科学大臣の何とかいう人が、小学校の英語必修化の論議に対して異議を唱え、美しい日本語を教えることがまず先だろう、というような発言をしたらしい。

 それを聞いて、もっともだと思った人が多いのではないだろうか。なるほど分かりやすい意見である。もっともだと思うのも仕方がない。けれども、ぼくにはものすごく間違った意見にしか思えない。

 小学校で英語を教えなければいけないかどうかの議論に関していえば、教えたっていいけれど、無理なんじゃないかなあというのが僕の感想だ。現場の混乱が目に見えるからだ。

 それに小学生から英語を教えようという話は、今の中高生がちっとも英語をしゃべれないという現実から来ているのだろう。これでは国際社会で通用する日本人にはなれないということだろう。ではどうして日本人の若者は英語がちっともしゃべれないのか。その重大な理由のひとつは、英語が大学受験科目になっているということがある。つまり、理系だろうが文系だろうが、英語は受験の要となっており、したがって、英語において日本の学生は、いつも「×」におびえている。間違ってはいないだろうかといつもびくびくしている。こんなことではいつまでたっても英語が喋れるようになるわけはない。日本の子どもの大部分が、流ちょうに日本語を喋れるのは、幼い頃から「間違える」ことを心配せずに拙い日本語を喋り続けることができたからだ。

 日本人が誰でも英語を喋れるようになる必要がもし本当にあるのなら(ぼくはないと思っているが)、英語を大学入試からはずすことだ、というのがぼくの持論である。

 現状では、小学生に英語を教えるとなると、それから先の大学入試までをにらんだ教育になってしまうおそれが十分にあり、あまり効果を期待できない。でも、やれるなら、やったって構わないと思う。

 大臣の意見が間違っているというのは、そういう点ではない。間違っているのは、「美しい日本語」を学校で教えることができる、そして教えれば「美しい日本語」を日本人が使えるようになる、という思いこみである。

 そんなことは絶対にできないのだ。国語の教師であるぼくがこんなことを言うのもおかしいと思われるだろうが、そんなことは絶対にできない。なぜか。それは「美しい日本語」というものがどういう言葉か、誰にも分かっていないからだ。大臣は自分がそれを分かっていると思っている。それが根本的な間違いである。


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