55 「借りる」という感覚

2006.9


 ものを捨てることは、必ず痛みをともなうものだ。その痛みがどの程度のものか、またその痛みにどこまで耐えられるかが、ものを捨てることができるかどうかの分かれ目となる。

 長い間テレビの脇においてあったスピーカーをアンプとともに捨てた。そのスピーカーで聴くには面倒な手続きが多く、そのうえ悪いことには大きくて高価な割には音質があまりよくなくて、結局あまり使わないままになっていた。

 先日たまたまそのスピーカーでCDを聴いたところ、アンプが壊れてしまったらしく、恐ろしくヒドイ音しかでなくなっていることに気づき、本当はスピーカーには罪がないのだが、この際捨ててしまえということになり、大型ゴミの申し込みをした。

 回収日の朝の天気予報はあいにくの「大雨」で、それなら夜のうちに出してしまおうということで、小雨降る中、家内と二人で家の前まで運んだ。高さ1メートル近く、重さ30キロぐらいはあるスピーカーを横にして、フード付きのビニールコートを着た二人がエッチラオッチラ運ぶ姿は、まるで死体を遺棄する殺人犯のようだ。さっきまでリビングに堂々と鎮座していたスピーカーとアンプが、今はもうそぼ降る雨に濡れて「大型ゴミ」になっている。そういう有様を見て感傷的になったらおしまいだ。さっさと見捨てて家に入った。しかし、やはり痛みはあった。

 昨日久しぶりに学校に遊びにみえた先輩の教師でもあり、またぼくの恩師でもあるF先生と話をしていたら、先生はこんなことをいう。「石を買うときはねえ、」(F先生は、骨董市に出かけて石を買ってくるのが趣味なのだ。)「『買う』んじゃなくて、『借りる』という感覚なんだ。死ぬまであと十年、あるいは二十年と考えて、それまで『お借りする』、その値段としてどうかと考えるんだ。」

 なるほどそうか。若いころは、「ものを買う」ことは「自分のものにする」つまり「所有する」ことを意味していた。しかし、自分がいつか死ぬということが現実味を帯びて感じられるトシになると、「所有」ということがどこか白々しく感じられてくる。何を所有しようが、「あの世」には持って行けないのである。だとすれば、たとえ金を出そうと、それは「借り賃」だということになる。問題は「持っている」ことではなく、「借りた」ものをどう有効に使うか、どう楽しむか、なのだ。

 雨に濡れたスピーカーもアンプも、「捨てた」のではなく、「返した」のだ、と思いたい。


Home | Index | Back | Next