53 敬老の日

2006.9


 シルバーシートが空いていても、座ろうと思ったことはない。シルバーシートは老人用の席なのだから、ぼくには関係ない、つまりぼくはまだ老人ではない、と思っているからだろう。

 はやく老人になってしまったほうが得なことはたくさんあって、さしあたっては60歳以上は映画館の料金が1000円というもの。これは一日も早く獲得したい権利だ。

 オレは老人扱いされたくないといって、席を譲られると憤然とするとか、バスの無料パスは絶対使わないとか、突っ張っている人を見かけるが、老人であることはちっとも恥ずべきことではないのだから、もっと素直になればいいのにと思う。

 中国では、「老師」といえば、「歳を取って使い物にならなくなった教師」という意味ではなくて、尊敬の意を込めた名称である。「翁」という言葉も、男性の老人を意味するけれど、同時にそれは敬称でもある。松尾芭蕉などは、芭蕉翁とよく呼ばれたが、彼が死んだのは51歳で、今のぼくより5歳も若い。だからぼくだって「洋三翁」でもちっともかまわないわけだ。

 今の日本は、高齢化社会だとかいって大騒ぎするわりに「老」の価値をちっとも認めていない。「若」の価値だけがもてはやされ、「老人」は必死にみずからの「老」を隠そうとし、アンチエージングに血道をあげる。女性ならそれもわかるが、男が「老」を隠すことはない。

 昨日、幼稚園にこの春から通い出した4歳の孫からハガキが届いた。小さな手形がぺたっと押してあって、余白に母親らしき筆跡で「おじいちゃん、おばあちゃん、いつまでもげんきでいてください。」というようなことが書かれてあった。なぜ昨日なのか。今度の月曜が「敬老の日」だからである。いきなりハガキをみてショックを受けるといけないという母親(嫁)の配慮で、幼稚園の敬老の日の企画で、そのうちハガキが届きますという予告があったからよかったものの、いきなりだったらかなりうろたえただろう。「敬老の日」で「祝われる側」に来ていたとは、迂闊にも気づかなかった。

 そうか、そうだったのか……と、ショックはさすがに隠せないところが、先ほどの考えとは矛盾しているが、こうなったらもうさっさとシルバーシートに座ってやろうか。あ、若いくせにシルバーシートに座ったりして、なんて視線を浴びることはもう絶対にないはずだ。でもまだその「勇気」がない。みずからの「老」を認めたくない何かがまだぼくの中に住んでいるらしい。


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