52 修道院にいるみたい?

2006.9


 新学期になって、数人の同僚の教師から声をかけられた。そのうちの一人などは、意を決したような真剣な顔をして近づいてきて、「ヤマモト先生、大丈夫ですか? どこかお悪いんですか?」という。実はもうダメなんだぐらいの冗談をいつもなら言うところなのだが、あまりに心配そうな顔なので、ダイエットしてるだけだから平気ですよと真面目に答えてしまった。ああそうですかと彼は心底ホッとしたような表情で戻っていった。

 またある教師は皮肉っぽく笑って「ヤマモトさん、ほんとに痩せたねえ。」というから、そうだろと両腕をバレリーナのように上げて、くるりと半回転して横腹を見せ、ほら腹なんてもうないよ、仰向けに寝ると、腹のところが大きく窪むんだ。水だってたまるよ、これをオレは逆腹水と呼んでいる、何なら上だけでも脱いでやろうか? 美しいぜとまくし立てると、彼は辟易して去っていった。

 職員会議で隣に座ったある神父様は「ほんとに痩せましたね。大丈夫ですか。」とこれまた真面目に言うので、だって1日1500キロカロリーしか食べてないんですよ、酒だって飲まないし、間食は一切してませんしねと言うと「それじゃあ、まるで修道院にいるみたいじゃないの。」と言うから、思わず、修道院の比じゃありませんよと言ってしまった。イエズス会の修道院は酒だってタバコだって自由なのだ。もちろん神父だというだけではカロリー制限があるわけでもない。

 修道院での生活をしている神父という人たちを見るにつけ、羨ましいと思うことはあっても、かわいそうだとか、お気の毒だとか、あんまり思ったことはない。

 カトリックには「黙想」という「行」みたいなことがあって「黙想の家」というような施設に泊まって、ひたすら沈黙のうちに祈ったり聖書を読んだりする。先日もある信者の教師が10日間も黙想してきたと自慢するから、そんなことしてどこか成長したの? ちっとも変わってないじゃないのと憎まれ口を叩いてやった。悪いことだとは思わないが、「思い」より「行い」が大事だと思っているので、素直に褒める気にはなれないのだ。

 修道院なんかに入って修行するより、家庭を持った方がずっと「修行」になるというのが、ぼくの持論である。女房・子供の心配がないというだけでも、神父というのがどれほど気楽な境遇であるかをいくら説いても、経験がない彼らには絶対に分かるはずもない。

 アマノジャクは痩せても直らない。


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