51 「前に進む」ということ

2006.9


 中学1年生のYさんは、夏休みの自由研究にインターネットを使っています。まず何を研究したらいいかということについて、性格や興味などから診断して答えてくれるサイトにアクセスしました。その結果、自宅から海が近いので海の微生物を研究することになりました。Yさんはさっそく海に行って、海水をとってきました。家には10倍から300倍までの顕微鏡がありましたが、それで海の微生物が見えるのかどうかをインターネットのサイトの質問コーナーで質問しました。1週間ほど経って、専門家から「大丈夫、あなたのお家の顕微鏡でちゃんと見えますよ。」という返事がかえってきました。そこでさっそくYさんは顕微鏡を取り出して海の微生物を観察しました。

 8月も終わりごろのNHK首都圏ネットのひとこまである。これを見ていて、どうしてこの子は「家の顕微鏡で海の微生物が見えますか?」と質問する前にまず実際に見てみなかったのかと非常に不思議に思った。すると、そのことに関してちゃんとインタビューがあって、その子はこう答えた。

 「もし家の顕微鏡で何にも見えなかったら、前に進めなくなってしまうと思いました。それが怖かったので、質問しました。」

 これには深く考えさせられた。

 「前に進めなくなってしまう」という言葉を、ぼくはこれまでにおそらく一度も使ったことがない。けれども、確かに近頃はよく耳にする言葉だ。この言葉も「後で後悔する」のような一種の同義反復で、「進む」というのはたいてい「前」に向かってのことだ。というより、進む方向を「前」というのではないか。もっとも昔の日本の軍隊は「退却!」というのが悔しいから「後ろに前進!」と言ったらしいが。

 ともかくこの子にとって「前に進む」ことが至上命令のようにあって、それができないことが「怖い」と感じられているということがどうも気になる。

 海水をとってきて、自分の家にあった顕微鏡で覗いてみた。見えるか見えないかドキドキ。あ、見えた。あるいは、何だ、何にも見えないじゃない。がっかり。どうしてこれではいけないのか。「前に進む」などというシャラクサイことが、この際、どこに入り込む余地があるのだろう。

 家の顕微鏡で見たけど、何にも見えませんでした。これは、海に微生物がいないか、それとも顕微鏡が壊れていたのか、それとも……、ということが、自由かどうかは知らないが、「研究」というものではないのだろうか。


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