50 「自由研究」

2006.8


 夏休みの自由研究などというものがまだ世の中には存在しているらしい。この「自由研究」という言葉もどうもしっくりこない言葉で、国語審議会も「一番最後」とか「後で後悔する」とかにケチをつけるなら、ぜひこっちにもイチャモンをつけてほしいものだ。

 「自由研究」というのは、自由について研究するのではもちろんなくて、ましてや研究するかしないか自由な研究ということでもなくて、絶対にしなくてはいけない、そういう意味ではきわめて不自由な研究ではあるけれど、何について研究するかは自由なのだということを意味しているぐらいのことは、長年教師をしているので知っている。

 この何をしても自由だけど、することは義務だというのは、人間がいちばん苦手なことだ。早い話が、家内に「今晩、何が食べたい?」って聞かれて、「何でもいいよ。」と答えると、絶対に喜ばれない。ああそう、何を作ってもいいのね、嬉しいわ、などという答は一度も聞いたことがない。これは日本全国どこの家庭でも同じことだろう。

 生徒に作文を書かせるときも、題は何でもいいから原稿用紙3枚書け、なんていった日には大顰蹙をかうに決まっている。多くの生徒は、題を考えるだけで時間の半分以上を使ってしまう。

 何かをするのが義務だけど、何をするかは自由であるというのは、実は全然自由ではないのである。

 「自由業」というこれも変な言葉があるけれど、これはもちろん働いても働かなくてもまったく自由な職業ということではない。そればかりか、することを毎日変えてもかまわないという職業であるわけでもない。ある決まった組織に縛られないというだけのことだろう。しかし自分で選んだ仕事からは決して自由であるわけではないから、ちっとも「自由」業ではないのだ。

 「夏休みの自由研究」という言葉の響きは、学校から解放された自由な時間のなかで、自由に行われる研究という明るいイメージを生むけれど、その実態は、ねえお母さん自由研究だけど何したらいい? うるさいわね、そんなこと自分で決めなさい、という会話を全国規模で生産し続けるやっかいな代物にすぎない。そういう記憶を、教師も教育委員会のお役人も国語審議会の委員も、みんな例外なく持っているはずなのに、その言葉もなくならなければ、そのこと自体も廃止されない。そして巷には相も変わらず「自由研究キット」などという途方もなく矛盾したモノが氾濫しているわけである。


Home | Index | Back | Next