38 「国」は愛せるのか

2006.6


 国を愛する心を養う、ということが今度の教育基本法改正案に盛り込まれて、論議を呼んでいるが、先日の日曜日のTBSの「サンデーモーニング」でも取り上げられていた。コメンテーターたちはおおむね批判的なスタンスだった。

 教育の現場というのも相当変なもので、改正案が出ただけなのに、埼玉県などの小学校では指導要領に準拠するという形で、「国を愛する心」を評価しているのだというニュースも紹介された。小泉首相は「そんな必要はない」、文部科学大臣は「とんでもないことだ」などと言ってはいるが、内心はどうだか分かったものではない。当の埼玉県の教育委員会の役人などは、どうやって「国を愛する心」を評価するのかという記者の質問に答えて、「例えば修学旅行に行って、奈良の大仏さんなどを見て、ああたいしたものだと思えば、そういうことが国の伝統を理解し愛することになるのではないでしょうか。」というような馬鹿げたことを平然と述べている始末で、これにはコメンテーターたちも呆れていた。

 しかし、コメンテーターたちがそろって「でも、国を愛することが大事だってことは当然のことですよね。ただそれを教育基本法に盛り込まなきゃいけないかどうかってことでしょ。」といった「基本合意」に落ち着いていたのは、はなはだ不快だった。金子勝だけは「そもそも今の日本が愛される国になっているかってことが…」といいかけたが、確か大宅映子に「それは問題がちがう。」と押さえ込まれてしまった。しかし、その金子の言いぐさにしても、「愛する」という言葉に疑問を感じていない点では他のコメンテーターと同じ穴のムジナだ。

 要するに、何が不快だったのか。

 誰も「愛する」という言葉に疑問を持っていなかった点だ。「現代人は愛しうるか」という問題を提示したのはD・H・ロレンスだったが、そういう意識はもう誰にもないらしい。「個人」というものを発見してしまった「現代人」は、もう他人を「愛する」ことなど出来ないのではないか、ロレンスの言いたかったことがこういうことだったかどうかは定かではないが、確かに、こういう問題がある。

 早い話が、アパートの見知らぬ隣人をぼくらは決して愛せない。すぐ隣に住んで、息をしている隣人を愛せないぼくらが、どうして実体も定かでない「国」を愛せるのか。そこで問題となっている「愛」とはいったい何なのか。このことを考えない議論はすべて無効である。


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