37 百科事典という厄介もの

2006.5


 小学館の「日本大百科全書」全25巻を持っているが、数年前にこれがDVDになり、今ではそっくりぼくのパソコンのハードディスクの中に入っている。もっとも図版はかなり少ないのだが、文字の部分はそっくりそのままである(らしい)。実際に何かを調べるときは、パソコンのほうが断然使いやすいから、本のほうはここのところほとんど本棚のいちばん手の届きにくいところに眠っている。

 いらないから売ってしまおうと思っても、百科事典は売れない。古書店では全25巻揃って何と15000円で売られている。これではたとえ古書店が買ってくれたとしても5000円ぐらいにしかならない見当である。もちろん、知人に「いらない?」と声をかけても、迷惑そうな表情が返ってくるばかりだ。

 けれども、これほど場所ふさぎで、世の中で邪魔者扱いされている百科事典だが、その25冊の本の背表紙を眺めていると、ほんとうにこれが全部パソコンに入っているのだろうかと、ふと疑問に思うことがある。いや、入っていることは確かなのだが、どうもその実感に乏しいのである。この25冊の事典がまるごとパソコンに入っていることは、便利だけれども、ちっとも嬉しくない、というか、わくわくさせないのだ。

 無人島に行くとしたら、何の本を持っていくかというおなじみの質問があって、ときどき百科事典と答える人がいる。つい最近ではあの堀江氏が、拘置所の中で百科事典を読んでいるということが話題になったばかりだが、こういう場合、それが全25巻か、あるいは全1巻かはともかく、やはり「本」の形をした百科事典でなくては、何だか格好がつかないような気がするのだ。

 もし全世界の書物がすべてネット上の「サイバー図書館」に収納されたとしても、ぼくらはその図書館に入り浸り、無我夢中でその「テキスト」を読み浸ることができるだろうか。その図書館は、「何でもある」ということにおいては無類のものではあるだろうが、それ以上ではない。ときには、読みたい本がない、ということも楽しみでありうるのが、読書というものの奥深さなのだから、その「無類」さすら、読書とは無縁のものなのかもしれない。

 25巻の百科事典は、はなはだ厄介な場所ふさぎのものではあるが、やはり、「こころ踊らせる」ものであることは間違いない。お金には換算できないもの、それが本としての百科事典かもしれない。


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