35 リスの不安

2006.5


 あらゆるものを所有したいという欲望と、あらゆるものを放棄して無一物になりたいという憧憬のなかで揺れ動くのが人間というものだろうか。

 様々な雑多なモノの囲まれている幸せを感じながら、それを限りなくウットウシイと感じ、方丈の草庵を夢見るという矛盾。おそらく、それは、豊かな「生」を享受しつつ、来るべき「死」を予感せざるを得ないという人間の宿命から来る矛盾なのかもしれない。

 冬を前にしたリスは、森の木の実をひたすら集めて貯め込むけれど、実際にはその木の実を貯蔵しておいた場所を忘れてしまうのだ、ということをどこかで聞いたことがある。それがもし本当なら、動物にあるまじき人間的な習性ではないか。貯蔵した場所を忘れてしまったら、いったいどうやって冬の飢餓を乗り越えるのか。たぶん、冬眠してしまうから、エサはいらないのだろう。(リスは冬眠するのだっけ?)

 来るべき「冬」に備えて、食糧を貯蔵しておいたのに、「冬」はまるで予想に反した形で、つまり「冬眠」という形で乗り越えられてしまうのだとしたら、いったい秋の労働、つまりせっせと冬に備えて木の実を集めるという労働は、まったくの無駄だったのだろうか。

 リス自身に即して、結果からいえば、もちろん無駄以外の何ものでもない。とっておいたのに食べなかったのだから。けれども、食べられることなく貯蔵された木の実は、おそらく芽を出すだろう。リスには役だたなかったけれど、森にとっては役だったことになる。いや、リス自身にとってだって、秋の労働の果てにあじわった充実感、「いやー、これだけ貯め込んでおけば、この冬は安心だ。よかった、よかった。」という、えもいわれぬ充実感は、それ自体として「よきもの」だったに違いない。

 ものを貯め込む人間の習性というのは、おそらく、「死」の恐怖から逃れようとあがいた動物の本能に由来しているのだ。

 人間は死ねば無一物だ。あの世へは、何一つ持っていくことができない。それがわかっているのに、自分の周りをモノでいっぱいにしていなければ気が済まない。それはつまり、周りをモノでいっぱいにしていなければ、不安でしょうがないからなのではなかろうか。来るべき「冬」を前にしたリスのように、モノを貯めることで安心を得ようとしているのだ。

 「冬」を前にして、何もかも捨ててしまえる人というのは、「冬」がまったく別の形で乗り越えられるのだと悟った人に違いない。


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