34 フィロビブロン・クラブ

2006.5


 書物といふものを凡(すべ)て初めから読み通すものときめてゐるの徒はフィロビブロン・クラブ(愛書クラブの意。筆者注)の会員になる資格はない。哲学にせよ歴史にせよ小説にせよ中途からよんでも構はぬものが沢山あるし、終わりだけでよいのも初めと終りとだけでよいものもある。気分に伴(つ)れ、気候に従ひ、場所により、あるひは科学がよく頭に入る時あり、考証が呑みこめる時あり、随筆が一等向く時もある。

 日夏耿之介の言葉である。(「日夏耿之介文集」ちくま学芸文庫)何とも格好いいペンネームのこの詩人を知る人はそう多くはないだろうし、ましてその詩を今読む人もそうはいないだろうが、大変な読書家であり教養人であったようだ。その人がこんなことを言っているのだからおもしろい。

 本というものは初めから終わりまで読まなければ、読んだことにはならないのだという大学時代の教授の教えをいまだに奉じている知人がいるが、彼はこの言葉をどう受け取るだろうか。そんなのはタワゴトだというだろうか。間違ってるというだろうか。

 ぼくの場合は、初めから終わりまで読んだという本はごく稀だから、喜んで日夏氏の言をよしとする者だが、世の中には知人のような人も多いのだろう。少なくとも本を途中で投げ出すよりは、とにかく全部読むほうが、正しい(あるいはエライ)という感じがする。初めしか読まなかったり、後書きだけ読んで、あとは古本屋に売り飛ばしたりする人間は、どうしても「不真面目」に見えてしまう。

 けれども、日夏氏はそういう「不真面目」なヤツでなければ、「フィロビブロン・クラブ」の会員になる資格がないとおっしゃるわけだ。目次から奥付まで読むようなヤツは出て行けといっているのだ。

 どうしてなのかは、日夏氏の文章をちゃんと読まなければわからないわけだが、日夏氏だったか他の誰かだったかが、結局本というのは断片なのだというようなことを言っていたことがその答であるように思える。

 初めから終わりまで読んだからといって、果たして「全体」を読んだことになるのか、という問題である。全部読んだとしても、その本自体はあくまで断片に過ぎぬ。本1冊といえども、それは著者の考え・思いの「すべて」を表現し尽くしたものではあり得ないからだ。

 すべては、断片である。そのことを、本について知っている者こそが、「フィロビブロン・クラブ」の会員なのだということではなかろうか。


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