31 時間

2006.4


 集英社文庫にヘリテージシリーズというのがあって、世界や日本の古典的でしかも大部の作品を収めている。ダンテ「神曲」、ジョイス「ユリシーズ」、ゲーテ「ファウスト」、「萬葉集釋注」が刊行済みで、さらにこの3月からプルースト「失われた時を求めて」(鈴木道彦訳)の刊行が始まった。ちっとも読む時間がないくせに、こういうシリーズものには滅法弱くて、「ファウスト」以外は全部持っているということもあり、こうなったらこのシリーズは全部集めてしまえということで、これも刊行された2冊を買い求めて本棚に置いておいた。

 単行本の「プルースト全集」と、その全集と同じ訳者のちくま文庫版全10巻も持っているにもかかわらず、依然として1冊すら読み終わっていないのに、いくら訳者が別だからといって、さらに同じものを買うこともないだろうと思われるかもしれないが、そういうものでもないのである。こうなってくると、読む・読まないは関係がない。ただ、持っている・持っていないの世界なのだ。

 とはいうものの、「読まないぞ」と固く誓っているわけでもない。読みたいから買う。買うけれども読む時間がない。というだけのことなのだ。

 今日、ちょっと時間があったので、本棚から集英社文庫版の「失われた時を求めて」第1巻を手にとってみた。そして1ページ読んだ。この辺は少なくとも数十回は読んだ部分だ。ふと、目次をみると、巻末に松浦寿輝のエッセイが載っている。それで、そっちを読んだ。

 いきなり、吉田健一の「時間」という評論の引用から始まっている。吉田健一がプルーストの時間の把握の仕方を批判しているのだそうだ。そういえば、しばらく吉田健一を読んでないなあと思い、本棚から吉田健一全集の第27巻「時間/昔話」を引っ張りだしてきた。「時間」の冒頭は、松浦も引用しているこんな文章だ。

冬の朝が晴れていれば起きて木の枝の枯れ葉が朝日といふ水のやうに流れるものに洗はれてゐるのを見ているうちに時間がたつて行く。

 時間というのはそういうものだ。長いとか短いとかいうこともなく、ただそういうふうに流れていくのが時間なのだということらしい。

 ついでに、第2巻の工藤庸子のエッセイを読んだ。「読書はひとつの友情である。」というラスキンの言葉が紹介されている。ふーん、そうかあ、なんて思っているうちに、時間が流れ、「失われた時を求めて」は結局1ページ読んだだけだった。


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