15 無縁の輩、寒風の中。

2005.12


 所用あって東京に出て、午前中に仕事が終わったので、このまま帰るのは交通費がもったいないから何か展覧会でもやっていたら寄っていこうと上野で降りると、公園口の道には「書の至宝展」という旗がはためいている。そうか、もう始まったのか、書道にはとんと不案内だが中国・日本の名跡を眺めるだけでもいいではないかと、寒風吹きすさぶ中、国立博物館へと向かった。

 国立博物館に着いて、さてチケットを買おうと思ったが、どこにも「書の至宝展」の売り場がない。不審に思って、売り場のお姉さんに「書の至宝は?」と聞くと、「来年からです。」との答。駅前の旗を見て「開催中」と勝手に判断したぼくがオロカだった。

 寒風の中、せっかくここまで来たのにこのまま帰るのは癪だということで、他の展覧会を探したが、芸大美術館の「吉村順三建築展」しかない。「建築展」なんて面白くなさそうだなあと思ったが、とにかく行ってみた。

 やっぱり面白くなかった。それなのに会場は大盛況である。芸大の建築科の学生が多かったのだろうが、中には建築の青写真を楽しそうに眺めている夫婦もいる。展示物は、設計図やミニチュア、それに写真。全然面白くない。

 何々邸などと書かれた建築のミニチュアを見ても、建築を味わうことなどできない。建築はそこに住む人だけのものだ。そういう意味では、建築ほど「閉じられている」ものはない。もちろん公共的な建物はまた別の話だ。

 緑の中の別荘の写真をみても、「いいなあ」は、すぐに「うらやましいなあ」に変換してしまう。その建築のよさは、そこに住むものにしか分からないからだ。ゴッホの絵を見ても「いいなあ」は、決してその絵の所有者に対する「うらやましいなあ」には変換しない。だれが所有していようと、絵はそこにあり、所有者と同じようにぼくらはその美を享受できる。文学には所有者がない。豪華本で読もうと、書店で立ち読みしようと、「羅生門」はいつも同じ「羅生門」である。文学ほど公平に「開かれている」ものはない。

 音楽にいたっては、そもそも所有しようがないが、演奏の場は公平に「開かれている」とは言えないだろう。コンサートホールで聞くのと、安いラジカセで聞くのとでは、明らかに違う体験だ。

 いずれにしても、ぼくは所詮建築とは無縁の輩、熱気に包まれた会場をそうそうに立ち去り、師走の寒風の中を上野駅へと急いだ。翌日は、熱を出した。まったく、とんでもない勘違いだった。


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