12 文検というものがあるらしい

2005.12


 漢字検定というものがあることは、もちろん知っていた。国語の教師のはしくれだから知っていて当然なのかもしれないが、それ以上に漢字検定用の問題集の見本が山ほど学校に送られてくるから、嫌でも知らざるをえない。最近の学校では積極的に受験させているところもあるらしい。別に悪いことではないけれど、漢字検定二級です、などということが、いったいどれほどの価値を持つのかぼくには分からない。就職のときには有利なのかもしれない、程度のことしか分からない。というか、それ以上の興味がない。

 漢字をたくさん知っていることは、いいことには違いないが、だからどうなの? という気分もある。これはたぶん、国語教師のくせにどうも漢字が苦手というぼくの「ひがみ」なのかもしれない。

 ところで、つい最近知ったのだが、漢字検定どころか、文章検定というのがどうもあるらしい。略して「文検」だという。いろいろ調べてみたら、「日本文章力検定協会」という団体があって、そこにはその道の権威の学者が名を連ねている。この検定を大学も入学試験の優遇に使っているところもあるということも分かった。いずれにしても、アヤシイものではなさそうだ。

 けれども、先日聞いた話では、文検の参考書をみると、小論文はとにかく「頭括型」一辺倒だという。つまり、まず結論を述べて、その後でその理由を書くという手順を推奨しているというのだ。何を推奨しようと勝手だが、もし世の中の人が、みんなそんな文章を良い文章だと思いこみ、そろってそんな文章を書くようになったら、と考えると不愉快になる。

 「文検」が目指すのは、「分かりやすい論理的な文章」だろう。ビジネス文書やレポートなどの生活に密着した文章だろう。だから、それはそれでいいのだ。けれども「文検」などといういわば権威付けされたものは、その「枠」を超えて評価されがちなものだ。それが恐い。

 自分の考えを出来るだけ正確に表現するのが文章だと普通は思われている。けれども、実はそんな文章はたいしたものではない。自分で分かっていることを書いたとしても、そんなことは立派でもなんでもない。分からないことを分かろうとして書く文章こそが貴重なのだ。そういう文章の場合は、その「型」など問題外だ。ぐちゃぐちゃで、だらだらして、分かりにくいかもしれない。でも、だれでも知っているようなことを、理路整然と書いてある文章よりも何倍も魅力的ではなかろうか。


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