6 捨ててしまう

2005.10


 イエズス会というカトリックの修道会があって、そのイエズス会の会員が亡くなると、その人の持ち物のすべてが死亡後1週間ぐらいの間に処分されてしまうのだという。それがイエズス会の伝統らしい。

 ということを、今日、はっきりと知った。

 今日、学校が主催する教職員研修会があって、その講師の方から聞いたのである。その方によれば、H学院の校長をかつて務めたR神父が、アメリカで急死されたとき、持ち物の一切合切があっという間に捨てられてしまって、何にも残っていなかったというのだ。校長時代の訓話の原稿など、いつか本にしたいとおっしゃっていたのに、そうした遺品も跡形もなかったそうだ。

 今日はっきりと知ったというのなら、今までぼんやりとなら知っていたのかと聞かれれば、まさにその通りなので、中高生時代にお世話になったW神父の場合も、亡くなってすぐに持ち物をみんな捨てられそうになったので、卒業生が慌てて回収してきたのだといって、その遺品が学校で展示されたことがある。その時、「捨ててしまう」ことがイエズス会の伝統だなどとは知らなかったから、ずいぶん薄情な修道会だなあと、ぼんやり思ったというわけなのだ。

 今日、それが伝統だということをはっきりと知って、びっくりすると同時に、ちょっと考えてしまった。

 普通の日本人なら、死んだ人の持ち物はそう簡単には捨てられないだろう。いずれ捨てるにしても、何ヶ月か後、それも少なくとも1月以上後だろう。それを死んで1週間もたたないうちに、まるごと全部捨ててしまうというのは、いかにも薄情である。もしそんなことをしようものなら、親戚一同から何と言われるか分かったものではない。お前はそれでも人間か、と殴られるかもしれない。

 イエズス会士は、修道者だから、妻子もいない。だから遺品を抱いて懐かしむ者もいないのだといっても、友人だって、教え子だっているのだ。もう少し人間味があってもよさそうな気もする。

 けれども、それでは、自分がもし死んだとして、自分の持ち物をああでもないこうでもないと調べられ、え? コイツはこんなもの持ってたのか、こんなこと考えてたのかとアゲツラワレルことが、果たして愉快なことだろうかと考えると、それは不愉快だし、恥ずかしいよなあと思われる。

 あれやこれや考えると、イエズス会の伝統の「捨ててしまう」というのは、薄情のようだけれども、最良の方法なのかもしれないと、ふと思った。


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