3 聖職?

2005.10


 ワタミの社長が都内の某私立高校の理事長に就任したとき、そこの教師に向かって、「教師は聖職である。生徒の為に命を捨てることのできる者だけここに残れ。」と言ったという。100人近くいた教師のうち30人が辞めたというが、70人も残ったことのほうが驚異というべきである。

 もちろん、この70人が全部「生徒のためになら命を捨てられる」と思ったわけではないだろう。そんな人間が7割もいたら、日本全国の学校がそれこそ「聖職の碑」だらけになっていなければおかしい。「生徒のためになら命を捨てられる」と確信している教師など、一万人に一人だっているはずがないのだ。

 その学校に残った70人は、おそらく「辞めるに辞められない」個々の事情があり、「耐え難くを堪え、忍び難きを忍んで」いるに違いない。居酒屋の社長が、自分の学校の理事長にいきなりなって、教育の何たるかもわきまえず、ただ居酒屋経営のノリでとにかく経費削減を考えた末のキレイゴトを訓辞したからといって、おいそれと「辞めてやる」とは言えない。何をバカ言ってんだと思っても、家族の為なら我慢するしかないではないか。「聖職」だの「命を捨てる」だの、ばかも休み休み言えとは思っても、口にはできまい。

 ワタミの社長が、もしそんなことを本気で思っているなら、まず率先して自分から、命を捨てないまでも、それよりは何百倍も軽い犠牲、例えば自分の財産の半分を生徒のために投げうつぐらいのことは当然しなければならないだろう。行動で模範を示せないようなヤツのお説教など、何ほどの価値もない。

 それにしても、その高校が教師の欠員募集をしたら、募集30人のところを500人もの応募が全国からあったというが、どうも世の中、分からないものである。自分は「生徒の為に命を捨てることのできる者」であるなどというトンマな錯覚をする人間が、全国に500人もいるなんてとても信じられないのだ。もっとも、自民圧勝とか、愛知万博に殺到とかいった、「信じられない」ことが次々と起こる国のことだから、そういう錯覚をする人間が500人ぐらいいたって、別に驚くことはないのかもしれない。ひょっとしたら、地球温暖化で、人間の脳まで溶け出しているのかもしれない。

 教育は、「聖職」だの「命を捨てる」だのといったエキセントリックなものではない。「読み書き」を出来るようにするための地道で忍耐強い努力以外の何ものでもないのだ。


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