フレンチ・ドレッシング

監督:斎藤久志


 日本映像学会関西支部の夏期ゼミナールで、五所平之助監督の「挽歌」(原田康子原作)を見たあとの休憩時間に顔を合わせた中年男の口から異口同音に発せられた感想は、「勝手な女だ。わけがわからん。こんな女の子に惚れられたら大変だ。」ということだった。作品としても愚作だという意見が多かった。ところが、ゼミナールの最後を締めくくるシンポジウムで、羽生清先生から「わからない、というんじゃなくて、こういう風になかなか自己決定ができない女の子の状況に目を向けて欲しい」という趣旨の発言があった。

 そのとき、ふと京都に出かける前に見た「フレンチ・ドレッシング」のことが思い浮かんだ。この映画からすれば、「挽歌」などむしろわかりやすすぎるくらいのものだ。

 この映画は、8ミリや16ミリでは数本の映画を撮り、脚本でも活躍している斎藤久志監督の初めての35ミリ映画である。「わけがわからない」と言ってしまえば、これほどよくわからない映画もない。冒頭いきなりイジメを受けて屋上から身をなげようとしているかに見える男子生徒岸田を、屋上で昼寝していた男性教師村井が「強姦」してしまう。村井は自分の妻を殺して犬と一緒に庭に埋めたのだという。学校も辞めた村井の家に、岸田は出かけていき、一緒に生活を始める。そこへ、同級生の女子生徒のマリィが入り込み、奇妙な3人の生活が続く。話としては、そんなところで、劇的なクライマックスが用意されているわけでもない。

 この映画が与える最も奇妙な印象は決してその冒頭見られるようなことの異常さではなく、登場人物のすべてが、生活の「根」を持っていないということだ。岸田にしても、マリィにしても、学校へ最近来ないねと声をかける同級生はいるけれど、心配して学校へかけつける親とか、行方を探す担任とかは一切でてこない。学校の中の描写にしても、教師として登場するのは村井一人で、校長も教頭も出てこない。出てくる人間が、あらゆる背景を取り除いた、まるで写真の中から人物だけをくり抜いてそこへぽんと投げ出したような具合に登場するのだ。だから、舞台が学校であっても、そこは学校ではないし、村井の家であっても、そこは家庭ではない。

 この映画に出てくる人物のほとんどすべては、世間の中に「根」を持たない、世間から遊離している人物として描かれている。それは、世間の価値を否定するといった能動的な態度ですらなく、最初から世間が視野に入っていない者たちの世界なのだ。それは今日の若い人たちの精神的な状況そのものであるのかもしれない。

 クラブで酒を飲み、踊って、トイレで男にキスされて、疲れたから家に帰ろうと言ってマリィとその女友達京子が自転車を走らせるシーンが延々と続くが、帰るべき家は最初からない。映像の向こうに、帰るべき家のイメージがまったく浮かんでこないのだ。自転車は、ただ町の中を走る。二人の女の子は、どんどん町の風景の中から遊離し、くり抜かれていく。案の定、疲れたといって自転車を降りると、家に帰るのをあきらめて、二人でホテルに泊まることになる。そのホテルに泊まるということに何の意味もない。つまりホテルとしての実在感はそこにはなく、ただ家ではない泊まる場所として設定されているにすぎないのだ。そのホテルに岸田が村井と泊まっていて、どういう事情か知らないが廊下に裸のまま放り出された岸田をマリィたちは自分たちの部屋に入れてやるのだが、マリィは何でこんな所にいるのかを聞こうとする京子を後目に、「何で岸田君は、すぐにねちゃうの?」と、今の状況とはまるで無関係なことを聞く。岸田は眠り病なのだ。岸田は、リバーフェニックスと同じ病気さ、と答えると、マリィは「それって、死ぬの?」と聞く。

 男友達に一緒に帰ろうと誘われたマリィが学校のトイレでリップクリームなんかを塗っていると、トイレの中からうめき声が聞こえる。マリィが扉を蹴破ると、裸にされて縛られ、顔に「肉」とか「死」とか落書きされた岸田が便器の上でニヤニヤ笑っている。その岸田を助けてやりながらマリィは「岸田君、かっこいいよ。」と言う。岸田は、イジメられることに対して苦しんでいない。むしろ被虐的に喜んでいるように見える。だからといって、積極的にいじめられようとしているのでもない。しかしまた復讐もしないのだ。マリィもまた、そういうだらしなくてふがいない男に対して呆れるふうも、またいじめる側の同級生に対して怒るふうもなく、それどころか「かっこいい」と言って笑うのだ。マリィの頭の中には、「だらしない」とか「ふがいない」という概念がもともとないのだ。そういう概念は、やはり世間が長い時間をかけて作り上げてきた理想的な人間像から生まれてくる概念だから、世間が視野に入っていないマリィには、そんな概念はあるはずもない。そんなマリィはひどく寛容で、自由で、魅力的だ。

 人間がこの世で生きていく時、そのエネルギーはほとんど外界との融和をはかるために費やされる。どうしたら周囲の人間とうまくやっていけるだろうかとか、どうしたら人並みに生活できるだろうかとかを懸命に考え、努力もし、手応えのある人生を生きようとする。しかし、「フレンチ・ドレッシング」の中では、すべての登場人物が、そうしたわずらいからはまったく切り離された者として生きている。いじめられて、裸にされ、便所に閉じこめられても、周りの目さえ気にしなければ、それは恥でもなんでもない。元教師に、同級生の男女が、並んで肛門を犯されても、「痛かったでしょ。ぼくも最初は眠れなかった。」「うん、まだヒリヒリする。」「おなかすかない?」という会話が成立するのは、「あるべき男」とか「あるべき恋愛」とかそういった世間の価値基準が彼らの中にまったくないからだろう。うつぶせになって寝ている岸田が「フフッ」と笑う。どうしたの?と聞くマリィに岸田は答える。「お尻って平等だなと思ってさ」ここに現前する不思議な無価値状態の中の絶対平等。何とも言えない平和な感覚。しかし、彼らは、その発見に驚いたり感激したりはしない。それが、どのように生きていけばよいのかのしっかりとした手がかりにはならないのだ。

 教師の村井は、妻を殺したと言い、自殺をするんだと言って改造拳銃を作る。しかし、村井にも存在の根はない。教師と言う役割を初めから生きてはいない。妻をほんとうに殺したのかどうかすら分からない。ただ、岸田とマリィが勝手に村井の妻のものらしいワンピースを着たときは、ムキになって怒る。その辺にしか村井のリアリティがないばかりか、そういうリアリティがかえって不自然に感じられるくらいだ。しかし、教師という役割を完全に無視した村井はそれ故に、岸田やマリィの興味をひく。

 ラストシーン。村井と岸田は二人だけで海に行き、岸田が一人で海に入って泳ぐ。その岸田に向かって、村井は手でピストルのマネをして撃って、笑う。(このシーンは何となく、ヴィスコンティの「ベニスに死す」のラストシーンを思い出させる)岸田は泳いでいるうちに眠くなって海に沈んでしまう。そのとき岸田が「もう終わりかよ」とつぶやく。我々人間は、いくつで死のうと、死ぬときにもし意識があったら、だれでもこうつぶやくだろう。「えっ、これで終わりなの?」というのが実感に違いない。この岸田のつぶやきは胸を打つものがある。つまり、岸田は人生はまだまだあると思っていたのだ。ただ、明快な生き方のモデルがないために、わずかに自分の感性の赴くままに生きてきた。しかし、もし、これでほんとうに終わりなのだとしたら?

 生きる手がかりがなくて、ただ自分の思うように生きたとしても、最後に思うのは「もう終わりかよ」という一言につきるとしたら、人生とは何と空しいものか。世間からの遊離によって増幅された空しさのなかで、岸田のように溺れている若者たち。それでも、岸田は、何か普通の大人にはないものを村井に嗅ぎつけて、その関係を懸命に生きようとする。マリィもまた、その二人の関係の中に、何か抵抗感のある生の実感を得たいと思っているように見える。大人の村井にしても、改造拳銃をつくったり、かつての教え子との「不道徳」な関係をもつことで、かろうじて生きる手応えを得ているように見える。溺れているのは、つまり、岸田だけではないのだ。

 しかし映画は、岸田の死では終わらない。海の中に沈んでしまったかと思われた岸田が、勢いよく水面から飛び上がる。それは、岸田の新しい生の始まりを意味するだろう。空しさの海でいったん死んだ岸田が、なぜそんなにも生き生きと水面から飛び上がれたのか、それは、少なくとも借り物ではない自分の感性によって短いながらも自分の生を生きたからだろうか。そういうことを納得させるだけの演技力と、俳優としての魅力を岸田役の櫻田宗久は持っていた。

(1998/8)