恋する惑星

監督:ウォン・カーワァイ


 「『恋する惑星』を見てきた。」と言ったら、「何で今頃?」と映画通の生徒に馬鹿にされてしまった。多勢に無勢、生徒にはいつだってかなわない。それにしても、近頃の高校生も侮れない。映画を見ると言ったって、ハリウッドのものぐらいだろうと高をくくっていたら大間違いだ。

 ウォン・カーウァイは熱狂的に支持されているようだが、ぼくの場合は数年前たまたまビデオで見た「欲望の翼」のしっとりとした映像とセンチメンタルな物語にすっかり魅せられた。しかし、新作にすぐに飛びつくほどの熱狂的なファンでもなかった。だから、「今頃」になってリバイバル上映を見て、興奮していたりするわけだ。

 全編を貫くエネルギッシュな映像。映像ばかりではない。登場人物たちは実によく食う。そして恋をする。食って、恋することが、生きることだとでも言うように。単純なことだが、こんなに生き生きと表現されると、人生はなるほどそういうものかと納得してしまう。

 後半の話の、ホットドッグ屋の女の子フェイ(フェイ・ウォン)の輝くような若さの素晴らしさ。こんなにも若い女の子の心が、生き生きと、画面から溢れそうになるまで描かれた映画があったろうか。フェイは、女に捨てられた傷心の警察官の家に勝手に出かけていって、部屋をどんどん模様替えする。それなのに、男はまるで気が付かない。小さくなった石鹸がとりかえられているのに、その石鹸に向かって「やけになって、太るなよ。」などと語りかける始末。それでも、フェイは、楽しそうに模様替えを続ける。「夢のカルフォルニア」が流れる中で。

 そんな映像を見ながら、自分の歳を考えて、つくづく深いため息をついた。「若いっていいなあ。」という、もう人類によって何億回も繰り返されたであろうフレーズが、ため息とともに思わず洩れそうになる。先のことも、世間のことも、なんにも考えずに、ただ恋をすることの喜びと苦しみ。ああ、それだけあれば人生はよかったんだ。そして、そういう恋は、ただ若さだけがもたらしてくれるもの。そしてそれは、ぼくの歳では絶対に不可能なのだという確信がどんどん深まっていく。

 「恋する惑星」は、青春映画そのもの。切ないまでに羨ましい、青春の映画。呆然とただ見とれるばかりだ。

(1998/7)