身も心も

監督:荒井晴彦


 映画館の外で、次に上映する「南京」の上映中止を求める右翼の街宣車がうるさくて、映画に集中できなかったせいもあり、見ていてイライラしてしまった。何だ、まだこの全共闘世代のオジサンたちは、訳のわからぬ関係をズルズルと引きずって、あげくのはてのセックス三昧か、とわめきたくなる始末。たぶん、静かに見ることができたら印象も違っていたろう。途中で出ようかとも思ったが、今日が最終日なので、右翼のヒステリックな演説を聞きながらの「鑑賞」となってしまった。

 パンフレットの最初のページで、内館牧子がさかんに「全共闘世代としての共感」を語っているが、こうした安易な世代論がぼくは一番嫌だ。そうした全共闘世代の感傷的な回想は、聞きたくないのだ。岡本(奥田瑛二)と関谷(柄本明)がブランコにのったり、シーソーにのったりしながら「大学解体を叫んでいたお前が、今は大学教授」「ゴダールはシナリオなしだと言っていたお前が、シナリオライター」と言い合う場面など、何なんだと言いたくなる。だから何なんだ。そういって許しあっているのか。傷の舐めあいか。全共闘時代を「燃えた」連中の自嘲気味な語りにはうんざりする。「いちご白書をもう一度」の世界の焼き直しではないか。

 「大学解体」の不可能性などわかりきったことなのに、青春だからいいさと甘えて燃えて、大学教授を「オマエ」よばわりしておいて、「あのときはオレも若かったなあ。」もないだろう。ぼくは、全共闘世代のノンポリだが、そういう連中の甘えは、今でも心の中では許していない。「許していない」などという所に、結局自分の世代性も現れてしまうのだろうが、それはそれで仕方のないことだ。ぼくだって、仙人の山に住んでいたわけじゃない。

 まあ、それはそれ、映画の話だ。ラストの方で、岡本と綾(かたせ梨乃)が別れ話をしていて、綾が「あなた、わたしとセックスがしたいから結婚したの?」と聞くと、岡本が「決まってるじゃないか。おまえと一生やれるならと思ったから結婚したんだ。」という。これには、心底びっくり。そういうモンなんだろうか。まあ、そういうキャラクターとして設定したからそう言わせているということだろうが、あまりにばかばかしい大学教授の発言だ。

 関谷と綾の別れの場面でも、関谷が「君に会いたい。」「会ってるじゃない。」「まだ会ってない。」くだらないやりとりだ。そのくだらなさを表現したかったらしいというのは分かるが、それにしても、もうすぐ50歳という男女が、会えばセックス、話せば「あの人を好きにならないで」みたいな話ばっかり。いいかげんにしなさいよ。こんな会話を延々と聞かされたら、映画館の外でどなっている右翼の方が立派に見えてしまうじゃないか。

 岡本のマザコンぶりも、奥田の絶妙な演技ゆえか、やはり気持ちわるい。ぼくは、マザコンというのが理解できなくて、「おふくろの味」という言葉を聞いただけで、寒気がするほどなのだが、妻に捨てられて、ニューヨークへ戻る岡本が母親(加藤治子)に、「一緒に行こうよ。」というのには、ほんとにげんなり。

 ラストでは、関谷が家に戻ると、別れた妻のもとに引き取られている娘が笑顔で迎える。荒井監督は、「結局信用できるのは、情けないけど、血のつながりじゃないかというふうに今はちょっと思ってしまっている。」と語っているが、それではほんとに情けない。これが、甘ったれ全共闘世代のほんとに駄目なところだ。血縁なんかに頼るくらいなら、最初から「革命」なんて言うな。最後はオフクロが大事、最後は娘が大切というのなら、最初から赤の他人様に「オマエ」なんて口きくな。自分の先生に向かって「オマエ」という口を聞いて、古くさい師弟関係を根底から否定したのなら、当然血縁なんて屁でもないものだったはずではないか。それとも、最後はオカアチャンが守ってくれるから、先生にむかってアッカンベエでもしたとでもいうのか。

 要するに、全共闘世代が50路を迎えて、その青春の決着をつけかねているというのがテーマらしい。つけかねるのは勝手だが、いわゆる全共闘世代が、インターナショナルをギターでならして、終わりにするような感傷的な奴らばっかりだったと思われるのは心外だ。

 右翼の街宣車でイライラしただけあって、登場する女性の気持ちの揺れを十分に感得できなかったのが残念だった。もういちど、落ち着いていつか見てみることにしたい。

(1998/6)