浮き雲

監督:アキ・カウリスマキ


 

 久しぶりのカウリスマキの新作。

 ぼくは、ほとんど横浜で映画を見ているので、どうしても東京公開より遅れることになる。場合によっては一年遅れということもある。「最新映画評」というのも、そんなわけで、あんまりあてにはならない。

 この映画の魅力を何といって説明すればいいのだろうか。無表情の顔の中に隠された、深い表情。無感動な動作に隠された、深い感動。この映画では、表情や、身振りを極端に押さえることで、心の奥の感情の深いそして微妙な波立ちを実に見事に表現している。それだけに、一歩見方を間違えると、パンフレットに掲載されている有吉玉青のようなトンチンカンな感想が生まれてしまう。有吉は、こんなふうに言う。

 たとえば、リモコン付きのカラーテレビが家に来た夜、イロナは喜ばなかった。イロナは注意深く、家にテレビという異物のある状況を眺める。そうしてつぶやく。「カラーだわ。」状況の客観的な把握のあとに、やっと感情が湧きだしてくる。(中略)ほんとうの貧しさの中では、人は、こんなふうに感情を忘れてしまうのかもしれない。あるいは、感じ方を。

 そうじゃないでしょ。イロナも亭主のラウリも、貧しさの中で、感情を忘れてしまっているわけじゃない。むしろ感情はあふれるばかりだ。ラウリが、イロナを目隠しして、テレビ(ソニー製だ)の前に連れてきて、「どうだ?」と自慢気に聞く。この時のラウリの得意な気持ちを考えただけでも「感情を忘れている」なんていえやしない。「便利だろ。いちいち立たなくていい。」とリモコンをいじる。その生真面目なラウリの表情や仕草のおかしさ。笑える場面だ。真剣で真面目な人間のおかしさ、滑稽さ。ラウリは真剣にカラーテレビを欲しがっていたのだ。カラーテレビは異物なのではない。夢なのだ。けれど、その夢の実現がまだ早すぎたのだ。だから、イロナは不安だったにすぎない。イロナは「ローンね。」と言う。それは、女の定番のせりふだ。テレビが「異物」だとか、「家にテレビという異物がある状況」だとかいうコムズカシイ理屈ではない。イロナは嬉しいけれど、ローンが心配なのだ。それだけのことだ。そこが、切ない。その切なさこそ、この映画の命なのだ。

 有吉さんは、ほんとに困った人だ。最後の場面について、こんなことまで言っている。

 夫妻がようやく開店にこぎつけたレストランは、その開店の日、お客がまた一人、また一人と入ってきて、信じがたいことだが、ついに満席となった。電話がなると、それは予約の電話である。けれど、映像からは何の晴れがましさも、活気も感じられない。店にたくさん人がいるだけ。何かがとりたてて変わったわけではない。夫妻も表情を変えることなく、静かに店を出た。そうして二人、浮き雲を見上げて、あっさりと映画は終わる。

 それこそ冗談ではない。夫妻がやっとの思いでレストランの開業にこぎつけたというのに、開店してもなかなかお客が来ない。この時の、夫妻の不安にみちた心中は切なくなるほどで、見ているこちらまで「お客よ来い」と言いたくなるほどドキドキしてしまう。その時、お客が来る。小躍りしたくなるのをこらえて、イロナは注文を受ける。その緊張した顔の中に隠された興奮。有吉さんには、「何の晴れがましさも活気も感じられない」と見えた、レストランの繁盛ぶりは、ぼくなどは拍手喝采したくなるほど。活気というものは、何も表面上ガサガサしていることではない。興奮は、アメリカの三流の女優のように頭を抱えて、転げ回ることではない。夫妻が、静かに犬を抱いてレストランの外に出るのは、レストランの成功という喜びをしみじみ味わうためだ。あの夫妻の表情に喜びが読みとれないなら、映画など見ないほうがいい。

 とにかく、心にしみる映画。2割が小津安二郎的世界と監督自身が語るように、その抑制された演技はまさに小津に通じるものがあるが、小津の晩年の作品より、はるかに暖かい心に満ちあふれている。

 そして忘れられないのは、色彩の鮮やかさ。その青とオレンジの反対色で構成された色彩は、きわめて人工的だが、まるで中世のフレスコ画(ジオットーとか)でもみるようだ。それなのに、パンフレットで川本三郎は、「2週間ほど前にこの映画を見たのだが、モノクロだとばかり記憶していた。いま改めて資料で確認すると何とカラーだった。」と書いている。やれやれ、川本三郎もついにボケたか。それとも、タダの試写会で居眠りでもしてたか。こんなに、カラーにこだわった映画をみて、たった2週間でモノクロだと勘違いし、それを資料で確かめてびっくりするとは、あまりにお粗末ではないか。「カラーなのにモノクロに思えてしまう。これはアキ・カウリスマキの、例によってぶっきらぼうで愛想のない手法のためだろうし、また、彼のほとんどの作品を手がけている撮影のティモ・サルミネンのカメラがとらえるヘルシンキの風景が、これも例によって、殺風景なためだろう。」などとひどい責任転嫁をしている。そんな屁理屈を並べるより、川本三郎よ、自分のボケ、あるいは怠慢をみとめなさい。でなければ、アキさんも、ティモさんも救われない。

(1998/3)