フェイス/オフ

監督:ジョン・ウー


 

 顔と心。肉体と精神。これらは、いつも僕らのにとってはワンセットのものとしてとらえられ、しかもそのことをいちいち意識していない。しかし、自分の最も憎む人間の顔を移植されてしまったら……。

 息子を殺した犯人の顔を、極秘任務のために移植されたFBIの捜査官が、自分の顔と生活をとり戻すために戦うアクション映画というわけだが、顔と心の葛藤が随所でさまざまなドラマを生んでいる。

 考えてみると、自分というものをもっとも分かりやすい形で、他人にも示し、自分自身にも示しているのが顔というものだ。顔を抜きにして、自分というものを認識することは実は非常に難しい。殺したいと思うほど憎む人間の顔を自分がしていたら、その憎悪は、自分自身に向けられてしまうだろう。ニコラス・ケージは、そうした苦悩を見事に演じている。逆に、ジョン・トラボルタは、闇の世界の住人が表の世界の舞台での顔を手に入れた悦楽を見事に表現している。そして、それぞれの妻あるいは愛人は、相手の顔の向こうにやどる心のあり方に、とまどいつつ、やがて相手の顔の向こうの心の姿こそ真の人間だという理解にたどりつく。卓抜な着想というべきだろう。しかも、この映画は、そうした精神性を深刻に描くのではなく、ハリウッド映画らしい派手なアクション映画として成立させている。後半のボートのチェイスなどはそこまでやるかという感じで、とにかくとことん観客を楽しませるサービス精神にはこと欠かない。

 もっとも、魅力的に思われたのは、テロリストを演じているニコラス・ケージ。神父の格好をして、合唱隊の女を口説くときのかろやかな仕草。腰にさした二丁の金色の拳銃の華麗さ。チャーターした飛行機に乗り込むやいなや、スチュワーデスを膝の上に座らせて、「俺の舌を吸え」というとんでもない嫌らしさ。すべてが、輝くような悪のにおいを麻薬のようにまき散らしている。それにくらべると、捜査官に入れ替わったあとのニコラス・ケージの演技が、ワンパターンになりがちなのは、「善」というものがもっている本質的な退屈さのゆえだろう。だから、とうぜん、ジョン・トラボルタも、「悪」を演じているときの方が、数倍もすばらしい。苦悩を抱える、まじめな捜査官ジョン・トラボルタはやはり、つまらない。

 激しいアクションの後で、最終的には、ハリウッド映画らしい結末で落ちついてしまうのが残念な気もする。まじめな捜査官の妻が、少しでも「悪の夫」によって「堕落」したらどうだったろうか。父に反抗していた不良娘も、ラストではとてもいい子に戻っているが、「理解ある悪なる父」によって、さらにその不良性をパワーアップしていたらどうだろうか。なかなか興味深い世界が広がっていくと思うのだが、もちろんこの映画の守備範囲ではないだろう。

 映像の美しさも特筆もの。タイトルバックなどは、ため息がでるほど美しい。

(1998/3)