HANA−BI

監督:北野武


 

 これまでのたけしの映画を実は見ていないと言ったら、知人に叱られた。見たくなかったわけではない。見たかったのに、なぜか見逃しつづけてきてしまったのだ。だから、「HANA−BI」がベネチアで賞をとったいま、はじめて「HANA−BI」でたけしの映画に接するというのは、みっともないが、仕方がない。我が身の怠惰を恥じるだけだ。

 「HANA−BI」では、すべてが夢の中の出来事のような印象がある。銀行強盗が、終始監視テレビのモニターの上の映像としてしか描かれないように、すべてがリアリティーを著しく欠いている。ほんとうに、銀行強盗をやったのだという主人公の実感も伝わってこないし、「銀行強盗がんばれよ」と言って笑う中古自動車屋のオヤジにも、「銀行強盗」がもっている社会的な意味合いの認識が完全に欠落している。そういう意味では、ヤクザの事務所(?)も、たけしの「絵」によって、その凶悪さのリアリティーを失い、その暴力も抽象化されている。こうした、現実感を欠いた現実の中で、岸本加世子演ずる病身の妻も、「余命いくばくもない妻」が持っている悲惨さ、陰惨さを微塵も持ち合わせていない。ただ黙って、パズルをとく夫婦。死を覚悟した妻は「私、精一杯生きるわ」というような常套句を吐かない。死を前にしたとき、言葉が無意味であることを恐らくたけしは骨身にしみて分かっているのだ。分かっているけど、「おれは死の前では言葉は無意味だと思う」というふうには説明しない。今の一瞬が大切なんだというふうにも説明しない。

 語らない映画、説明しない映画。語らず、説明せず、ということを、売り物にすらしない映画。

 ぼくらの生は、こうした語れない、説明できない、無数の時間の断片から成っているのではないだろうか。愛と暴力と言葉と行動と、そうした無数の時間の断片をどうしたら、納得のいくものとしてつなぎ合わせることができるのだろうか。

 絵を描くことによって生きていこうとする元刑事。しかし、「絵をかくこと」がこの刑事にとって決して救いになってはいない。車椅子にのった刑事が、花屋の店先で様々な花を見て涙を流す場面がある。そしてその花をテーマに絵を描こうとする。それを一般的に言ってしまえば、死を前にして、花の「美」や「生命」に動かされ、そこに生きる意味を見いだしたということになる。しかし、その後の刑事の絵を描く日々は、決して楽しそうに描かれているわけではなく、むしろ苦渋に満ちたものとして描かれ、最後には「自決」の文字まで記される。ここでも、死は、決定的に解決されたものにはなっていない。

 生の意味も、死の意味も、ぼくらには結局分からない。だからといって、瞬間瞬間の時間だけが、唯一分かっているものであるという確信もない。どう組み合わせればいいのか分からないパズルのように、とまどいながら、ぼくらは日々の断片を生き、その断片を組み合わせようとしている。

 そんな生の現実が、たけしの限りなく詩的な映画によってまるで陰画のように浮かびあがってくる。虚無というのでもない。希望に満ちているのでもない。

 ただ「ありがとう」と「ごめんね」だけが、考えてみれば、ぼくらの語りうるただ二つの言葉であったことに驚きをもって気づかされる。そして、その言葉がもしも「意味」を担えるのなら、まだぼくらはこの世に生きていく価値があるらしいと感じることができる。ぼくらの生の基盤は、こんなふるえるような繊細で微妙なものであることを、この映画は見終わった者の心の中で黙って語りつづける。

(1998/2)