恋の秋

監督:エリック・ロメール


 

 ロメールの描き出す人間は、いつもどこにでもいそうな普通の人間である。人物が典型として誇張されることもないし、事件が象徴的な意味を担っているわけでもない。ひとりひとりの人間の、いとおしいまでに人間的な心のヒダが、限りない優しさと、繊細さと、そして決して意地悪ではない辛辣さで描き出されていく。ひとりの人間のひとつの仕草、一瞬の表情をロメールはていねいに追いかける。ぼくらもまた、そのこまやかな映像に身をゆだね、幸福な時間を体験するのだ。

 「春のソナタ」を見たのは、もう何年前のことだろうか。揺れ動く少女の心が、そして若い女性の哲学教師の心がきらきら輝く若葉のように眩しかった。こちらの心まで失いかけていたやわらかさを取り戻していくようで、何とも心地よかった。

 「恋の秋」は、中年の大人の恋の話だ。恋と言っても、若者のそれのように、一瞬のうちに燃え上がり、性の営みのなかに溶解していくような狂おしい恋ではない。ひとりの男と女が、そろそろ先の見えてきた人生の中途で、どうすれ場ば自分の人生を豊かなものにしていくことができるかという、いわば「打算」の入ったものだ。打算があるからといって、純粋でないわけではない。打算もいとわないほど、生きることに真剣なのだと言ったほうがいい。若者の恋に打算はないかもしれない。しかし、それだけに、人生の全体を見渡すことなく、その時の欲望のままに愛し合うことが純粋だと錯覚されていないとも限らない。

 誰と暮らせば、より人生は豊かになるのかということを、この映画の登場人物はしっかりと考えている。どのように人間関係を作っていくのかに、彼らは前向きでひたむきに考える。その人生への姿勢がもっともよくあらわれていたのが、結婚交際広告に応募してくる男ジェラールだ。彼の交際への真剣さは、彼の人生への夢と慈しみが生み出したものだ。女たちも、それぞれの人生に夢を持ち、恋に憧れ、輝いているが、中年の男がこんなにも恋に対してひたむきで、純粋でありうることに感動してしまった。

 心の持ちようで、人生捨てたものでもないのだということを、ロメールはその映画全体で静かに語りかけている。

(1999/4)