ダンサー・イン・ザ・ダーク

監督:ラース・フォン・トリアー

(ラストシーンに触れています。見る前に読まないでください。)


 

 映画が始まる前に、この映画は、開始して3分何秒かは音楽だけが流れます、機械の故障ではありません、という字幕が出る。そして、黒い画面のまま、音楽が流れる。3分以上というのは、結構長い。嫌な予感がした。

 トリアー監督の『奇跡の海』は、かなり感動したし、いい映画だと思っていて、その監督の新作だから絶対にみたいと意気込んで出かけたのに、この開始の思わせぶりはいったいどうしたことか。機械の故障ではありませんと字幕で断らなければならない映画とは何か。黒い画面をだまって3分以上も見ていろというのは傲慢ではないか。しかも流れる音楽は、陳腐なもので、それでも、その暗闇に映像が流れるときは、ハッとするような美しさかと期待していれば、なんとタイトルのでかい文字がいきなり現れる。がっくりきた。

 問題は、その後である。ドキュメンタリータッチということなのだろうが、ハンディカメラが揺れる、揺れる。素人のビデオでもやらないような、急激なパンのオンパレード。そう言えば、『奇跡の海』もそうだったと思いながら、見ていると、30分もしないうちに、完全に船酔い状態で、胸がムカムカしてきた。ぼくは人一倍、こういうのが苦手なたちだが、こんなにひどい船酔い状態は初めてで、隣に家内がいなければ、途中で出るところだった。まだ始まって30分、あとこれが2時間も続くのかと思ったら、気が遠くなりそうだった。

 空想のシーンになると、カメラは固定される。色も鮮やかになる。空想と現実の差を、カメラワークと色彩で現そうというのだろうが、あまりにも乱暴だ。昔の『ジョニーは戦場へ行った』の方の二番煎じ。

 揺れに揺れる画面を必死で見ながら、だんだんカメラマン(カメラを回していたのはトリアー自身らしい)を呪いたくなってきた。おいおい、もっと落ち着いて見せてよ。それじゃまるで、観客に「見るな」って言ってるみたいじゃないか。いい加減にしろよ。そういう「心の声」もむなしく、カメラは暴力的に揺れる、流れる。とうとう、ぼくは目をつぶった。これ以上は見続けられない。吐いてしまう。妙に、英語のセリフがよく分かる。これじゃ「ムービーインザダーク」だ。

 ひどい映画である。カメラワークは脇においても、あまりに監督のひとりよがり。『奇跡の海』では、献身をテーマに、一人の女性の狂気ともいえる異常な行為を描いたわけだが、それはそれなりにぼくには納得がいった。しかし、今回は、「子供を思う母の自己犠牲」というものを描くために、強引にストーリーを展開させ、どこにも「納得」がない。こんなバカな話があるか、という以外、言いようがない。

 出てくる人間がみんなきちんと描けていない。一番ヒドイのが殺された警官のビル。女房の浪費癖に何も言えず、セルマ(主人公)の大事な金を盗んでおきながら、罪をセルマになすりつける。セルマに自分を殺せと言っておきながら、セルマが殺したとしか思えないような状況を作って死んでしまう。

 偽証するビルの女房。真実を言わない医師。いいかげんな裁判。死刑判決が出たあと、セルマの友人キャシー(カトリーヌ・ドヌープ)が真実を知り、裁判のやり直しへの道を開くが、その弁護士費用に、セルマが貯めた息子の手術費用を使うと言ったために、セルマは再審をとりさげ、死刑が確定してしまう。自分の命より、息子の視力のほうが大切だという母親の献身がテーマとして鮮明になるわけだが、どうしてもこの話の流れはおかしい。ムチャクチャである。

 その弁護士費用が2000ドルである。60年代の話だとはいえ、その金を、どうしてキャシーが払ってやれないのか。キャシーだって貧乏なんだと言ってしまえばそれまでだが、カトリーヌ・ドヌープのキャシーは全然貧乏に見えない。2000ドル工面がつけば人一人救えるのに、その金がどうしても工面できないような女には描かれていない。百歩譲ってキャシーが文無しだとしても、それなら一緒にミュージカルを練習している仲間がカンパしてやればいいじゃないか。その2000ドルが払えないために、セルマは死刑になるのに、その死刑をみんなで「見届けている」のだ。こんなバカな映画があるだろうか。そうしたリアルであるべき細部をすべていい加減に扱って、とにかく「母親の悲劇」を強引に作り出す。カメラを上下左右に動かせばリアルってモンじゃないだろう。

 周りがみんなどうしようもなく冷たくてヒドイ奴らばかりなのに、絞首刑になるセルマは、最後の最後で内面的に救われてしまって、歌まで歌いだす始末。このシーンで初めて、「空想」と「現実」が一体化するという意図は明白だが、ツマラヌ趣向である。

 セルマの死刑執行のシーンは残酷極まりない。こんなムゴイ死刑の場面はみたことがない。逆に言えば、よく撮れてるということだろうが、何でそこまでやるのかという意図がよくわからない。ぼくはだいたい死刑執行のシーンは嫌いなのだ。えんえんと執行シーンをとり続けるトリアー監督の感覚にはまったくついて行けない。悪趣味だ。

 パンフレットに阿部和重は「『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は、少なくとも二度は見るべきである。」なんて書いているが、少なくともぼくにとっては、二度は見ることができない映画である。

 ああ、まだ胃のあたりが気持ち悪い。

(2000/12)