ライフ・イズ・ビューティフル

監督:ロベルト・ベニーニ


 イタリア人というのはよくしゃべるなあという思いが見ていて頭から離れなかった。劇場のせいなのか、フィルムそのもののせいなのか、そのしゃべる声がやたら大きい。ベリーニの演技もオーバーだし、随所にちりばめられるギャグも、ひどく古めかしく、笑えない。こういうギャグをたとえばアメリカ人は腹をかかえて笑えるのだろうか。

 次から次へと繰り出されるイタリア語を聞いていると、イタリア人の陽気さが、むしろうっとおしいものに思えてきてしまう。ことはイタリア人に限ったことではない。昨年見たケネス・プラナーの「ハムレット」も、ハムレットの饒舌にいささか食傷した。ハムレットを青白い悩める青年と勝手に決めつけていたこちらが悪いと言われればそれまでだが、ことばを発することと思考することがほとんど同時といった発語の有りようは、ぼくには大きな違和感として残った。

 この「ライフ・イズ・ビューティフル」の饒舌は、そのように前半部分ではただやかましいだけにすぎないけれど、後半部になると趣を異にしてくる。子どもの前に存在する過酷な現実を、父親はことばによってゲームというフィクションへ転化しようとやっきになる。収容所の現実はあまりにも非人間的なものであり、子どもにそれを理解させることも納得させることもできない。だとしたら、現実そのものをフィクションに変換することによって現実を知らぬ間に乗り越えさせたほうがよい。そう父親は考えるのである。

 しかし、ことばによる現実の変換は、ほんとうに可能だったのだろうか。子どもは収容所の現実をほんとうにゲームだと信じ、そのゲームを生きたのだろうか。

 印象的なシーンがある。子どもが、もう家に帰りたいと言い出したとき、父は「それなら帰ろう。いつだって帰れるんだ。だけど残念だな。もうちょっとで1000点だったのに。そうしたら本物の戦車をもらえたのにな。」と言いつつ収容所の建物から雨の中へ出ていく。その後ろ姿を見て、子どもはやっぱり残るという。それは子どもが父のことばを信じたからだろうか。

 子どもは父のことばを信じた。父が殺される直前に子どもの前をおどけて歩いて見せたとき、子どもは一瞬もそれが父の最後の姿だということに、父の精一杯の演技だということに気づかなかった。けれども、ぼくは思うのだ。そういう子どもも、心のどこかで真実に気づいていたのではなかったか。収容所の中に入ったとたん、子どもはその異様な雰囲気に目をみはるが、その時、子どもは何もかも見てしまったのではなかったか。しかし、子どもは、父の作り出すフィクションに進んで身をゆだねる。父も、子どものその敏感さに気づきつつも、子どもと二人で懸命にフィクションを生きようとしたのではなかったかと。

 ことばによって、現実を変えることはできない。この映画を、優しい父親がその機転によって子どもを厳しい現実から守った話というように見てもいっこうに構わないだろう。しかしこの映画を、現実とことばとの壮絶な戦いの物語として見ることも可能ではなかろうか。そしてそのためにこそ、過剰なまでのベリーニの饒舌が必要だったのだと考えれば、前半のさわがしいドタバタも、意味あるものとして納得できそうな気がするのだ。

(1999/4)