シン・レッド・ライン

監督:テレンス・マリック


 スピルバーグの「プライベートライアン」を褒めちぎったあとに、この「シン・レッド・ライン」を見て、ちょっと間違ったかなという思いがある。

 この「シン・レッド・ライン」を見たあとでは、「プライベートライアン」が妙におとぎ話めいて見えてくるのだ。「プライベートライアン」は、スピルバーグのヒューマニズムの限界を示していたのかもしれないと思えるほどに「シン・レッド・ライン」には、厳しく人間の暗部を見据える目がある。

 この映画が表現しようとしているのは、戦争の生々しい現実ではなく、戦争をする人間の痛ましい心である。なぜ、人間は戦争をするのか?戦争はどこから来るのか?という問が、最初から最後まで映画の至る所にちりばめられている。この美しい自然の中で、なぜ人間同士が殺し合わねばならないのか?という陳腐とも言える問いかけが、この映画のすべてなのだ。

 「我々は、一つの魂をもった一人の人間なのか?」(字幕の戸田奈津子は「マン」を「男」と訳していたが、やはり「人間」と訳すべきではないか。)という問が語られる。もしそうならば、人を殺すのも、人を愛するのも、同じ一つの魂の作用だということになるだろう。どうして、われわれはそんなにも矛盾に満ちた存在なのか?この矛盾はいったいどこからくるのか?それを映画は問い続ける。そして、答えはついに得られないのだ。

 「プライベートライアン」では、上官の理不尽な命令のなかで、しかしその理不尽な任務を遂行することで、戦争のなかでの人間としての尊厳や誇りを取り戻せるという信念が語られた。そして映画はその任務を遂行する中途で戦死するミラー大尉の姿を描いた。それは悲劇的な死だったが、ミラー大尉はライアンの命の恩人としての名誉を勝ち得たのだ。映画はそのようないわば古典的な「美談」で一応の完結を見いだしている。そしてそういう意味では、確かに「プライベートライアン」は、ひとつの「おとぎ話」であったのだ。しかし「シン・レッド・ライン」では、そのような美談はどこにもない。それどころか、戦争以上に悲しい裏切りが語られるのだ。

 戦場では、人を殺すことに罪の意識を持ちながらも、殺さざるを得ない。「俺はおまえを殺したくない」と言いつつ、「大事な戦友を殺したのはお前だな」という思いが銃の引き金を引かせてしまう。それが戦争の現実だから、仕方がないとも言える。鳥や、木や、トカゲに姿を変えつつ人間を見守る「神」も、それを悲しむしかすべがないように見える。

 しかし、戦場でただ妻との再会だけを心の支えにして生き延びた兵士の元へ、「寂しかったから、恋をした」という理由だけで、離婚をしてくれと手紙を寄越す妻の残酷さは、身にしみる。戦場の殺伐とした映像に、何度も重ね合わされる妻の美しい映像が、戦争の悪を鮮烈に描き出していたのに、その美しい妻がもっとも冷酷な裏切りを平気でする。そのとき、戦場の方がまだ美しいと兵士は思わなかっただろうか。妻の裏切りの手紙を何度も何度も読み返すベル二等兵の姿は限りなく孤独で哀切きわまりないものがあった。ぼくはこのシーンを決して忘れないだろう。

 この世の楽園とも見えた南の島も、いつしか人々の心に亀裂がはいり、争いの島となる。この映画はガダルカナル戦の勝利の美酒では終わらない。この世に亀裂をもたらす戦争は、つまり悪は、いったいどこからやってくるのかを最後まで問い続ける。冒頭シーンの巨大なワニの姿は、たぶんそうした悪の象徴となっているのだろう。人間の心に深く潜行して、争いの元となる悪の実在。それを語っているように思えるのだ。ワニは、とらえられた姿で、再度映画に登場している。その巨大でグロテスクな姿は、人間の手に負えない悪そのものに見える。その悪をどうしたら人間は退治することができるのだろうか。

 日本兵が獣のように殺されるのを見るのは不愉快だといったような類の批評をいくつも目にしたが、この映画はそのような浅薄なナショナリズムで語るべき映画ではないだろう。「われわれは、一つの魂を持つ一人の人間ではないのか」という重い問いかけは、そうしたナショナリズムを如何にしたら超えられるのかという問いかけでもある。そしてそれこそが、次の世紀へ持ち越された人類最大の難問であり、ぼくらはその問題に背を向けてはならない。それを個人のレベルで言えば、ぼくらはどうしたら人を愛しつづけることができるのかという問題でもある。

 「プライベートライアン」は、とにかく楽しめたというのが実感だが、「シン・レッド・ライン」は、エンタテイメントになることを厳しく拒否して、ぼくらに重い課題を与えたといえるだろう。

(1999/4)