プライベート・ライアン

監督:スティーブン・スピルバーグ


 マイカル松竹本牧で、延々と上映を続けていたプライベートライアンを、その上映終了の二日前にようやく見ることができた。

 封切りの時から見たいと思いつつ、こんなに遅くなってしまったのは、一つには3時間という長さであり、もう一つは冒頭シーンのリアルさがあまりに強調されすぎた宣伝の仕方にあったようだ。3時間という長さは別にとりたててびっくりするほどのものではないから、たまたまぼくの生活的な事情に引っかかっただけのことだが、第二の理由の方は、けっこう大きかった。そもそもスプラッタの苦手なぼくだから、内臓がはみ出した兵士とか、自分のちぎれた腕をもってフラフラ歩く兵士と聞いただけで、二の足を踏んでしまったのだ。

 しかし、実際にドルビーサラウンドの映画館でこの映画を見て、見逃さなくてほんとによかったと思った。

 こういう言い方は不謹慎かもしれないが、とにかく圧倒的に面白いのだ。冒頭の墓地のシーンはともかく、そのすぐ後のオマハビーチの戦闘シーンから、もう息をのむ思いで、まさに画面に釘付け。見る前にコーヒーを飲んでしまったので、途中トイレに行きたくなるのではと、始まる前に神経質になっていたのなんかまったく忘れてしまっていた。

 知人が、「スピルバーグは、ジョーズの後、いろいろヒューマンな映画でゴチャゴチャやってきたけど、これは、『激突』『ジョーズ』に戻って、楽しんでるんじゃないか。」と言っていたが、まさにその通り。『激突』をスピルバーグの最高傑作と信じて疑わないぼくとしては、大いに共感する意見だ。

 オマハビーチでのシーンは、そのカメラワークといい、壮大で緻密な美術といい、リアル極まる音響といい、文句のつけようがない。内臓がはみ出した兵士なども、そこだけが突出しているわけではなく、凄惨な戦場の光景のなかにとけ込んでいる。水の中でもがき苦しんで沈んでいく兵士、水の中まで魚雷のように突っ込んでくる弾丸。血に染まる海。カメラは、水や、砂の匂いや感触までもリアルに伝える。見事というほかはない。

 こうした映像を見ていると、かつての『地上最大の作戦』あたりが、まるで鼻歌まじりの戦争映画のように思えてくる。凄惨さでは相当なリアルさを持っていた『地獄の黙示録』でも、これに比べると、多分に耽美的な映像であったことが納得される。この映画の硬質な戦争の描写は、キューブリックの『フルメタルジャケット』にもっとも近いが、見終わった直後の実感から言えば、それさえも凌駕していると思える。

 「ライアン二等兵を帰国させよ」という命令は、いかにもアメリカらしい発想だ。善意には違いないが、一方では、戦争そのものをそうした美談で、美化していこうとする権力側の意図がありありと伺える。そのような二重構造のなかで、ミラー大尉(トムハンクス)以下の7人は、矛盾に苦しみながらも、自分なりにその任務を意味づけていく。たとえ、偽善的な行為であっても、人殺しよりはましだという意識がミラーにはある。それどころか、その行為によってしか自分の人間性を確認できる手段がない。大きな悪の中での小さな善。その善がはたして大きな悪への償いになるものかどうか、それをミラーは問うている暇はないのだ。しかし、それでも、人間性を失ってただの戦闘機械になっていくことを拒絶するミラーの姿にはやはり胸を打たれる。

 見つけだされたライアン二等兵が、「やったー、これで帰れる!」とばかり、帰還の途につくのかと思っていると、これがなかなかの奴で、仲間をおいて自分だけが帰るわけには行かないと言い張る。権力者の考える美談の製造にはやすやすと乗らないわけだ。まっとうな人間なら、やはりそうするだろう。この「シュールな展開」を打開するのが、「一緒に戦う」という案で、ライアン一人を連れ帰ればいい任務だったのに、激烈な戦いを余儀なくされるはめになる。任務も全うし、ライアンの言い分も通すとなれば、一緒に戦って、そしてライアンを無事帰還させるしか道はない。しかし結果としては、ライアンは帰還できるが、多くの者が命を落とすことになる。

 この後半の山場となっている市街戦のシーンは、オマハビーチの戦闘シーンのリアルさとは異質で、戦争ゲーム的な枠組みを持っている。いろいろな仕掛けをして敵の戦車を待つあたりは、まるで『ホームアローン』のようだ。その牧歌的とも言える枠組みが、相手戦車の圧倒的な攻撃の前に、もろくも崩れていく。しかし、ゲーム感覚的な戦闘シーンは、誰が助かり誰が死んでしまうのかという興味を限りなく喚起するハラハラドキドキ型のエンタテイメントそのもの。塹壕の上に突然現れる戦車のシーンなどは『ジョーズ』そのままだし、砲身をこちらに向ける戦車の姿は、『激突』の大型トレーラーを彷彿とさせる。それらの映像の遊びめいたものは、オマハビーチのシーンにはなかったものだ。この辺の、異質なものの混在を是とするか否とするかは意見の分かれるところだろうが、ぼくには、面白かった。

 スピルバーグがこの映画を作ったのは、リアルに戦争の実体を映像化することで戦争への抗議の姿勢を示すということがあったことは間違いない。「全米を震撼させた」というのも、あながち誇大広告でもないだろう。しかし、この映画を見て、戦争の残酷さを実感したアメリカ国民が、たとえばコソボ空爆に反対するかというと、必ずしもそうではないだろう。それはそれ、これはこれ、なのである。映画が現実に対してどこまで有効に作用するかは計り知れないし、その責任を負うものでもない。それならば、戦争映画の中で映画本来の面白さが追求されてもいいわけだし、そのように映画を見ても何のさしつかえもないわけだ。

 まずはこの映画は第一級のエンターテイメント作品であり、スピルバーグの恐怖ものの集大成と言える。ただし、『激突』や『ジョーズ』では、加速する恐怖だけがひたすらに追求されていたのに対して、この『プライベートライアン』では、その恐怖のなかで、人間がいかにして人間でありうるかという問題を真摯に追求しているという点で、スピルバーグの成熟を見事に示していると言えるだろう。

(1999/4)