がんばっていきまっしょい

監督:磯村一路


 荒廃したボート部の合宿所。雨が降っている。教師たちが車で視察にやってくる。「もう取り壊すしかないでしょうなあ。」という結論に達して教師たちが去っていく。部屋に古びた写真。そこには5人の少女たちの輝かしい青春があった。

 映画はこのようにして始まり、1970年代の共通1次元年に戻っていく。映画の意図は明白であろう。今から20数年前にあった青春の姿に現代の状況を考える糸口を見出そうとしているのだ。いや、それは監督の意図というより、見る側で、いやおうなしに突きつけられる問題だと言ったほうがいいかもしれない。

 それにしても、伊予東高の始業式の何という簡潔で整然とした姿であることか。紋切り型だが、決して無意味ではない校長の話(あくびをする生徒はいるにしても)。それに続いて生徒会長による「がんばっていきまっしょい」のエール。全校生徒が「しょい!」と応える。これほど簡潔で感動的な始業式は見たことがない。何の観念的な言葉も理念も語られることはないが、しかし、学校が何を目指し、生徒が何をなそうとしているかが、はっきりとわかっている学校であることを感じさせるシーンである。今では、こういう学校は少ない。いや、すでに滅びてしまったのかも知れない。

 この映画は「成長の映画」である。ボートを漕いだこともない高校1年生のおどおどした態度。それが1年たつと見違えるように習熟している。この成長の過程のディテールの描写は完璧と言っていいほど見事なものである。田中麗奈をはじめとする5人の少女はみな素直ないい演技を見せている。

 何度も何度も映像化される水面を走るボート、水面を打つオールが、少女らの心の姿を鮮やかに形象化する。田中の演じる主人公の家庭環境は決して理想的なものではないし、中島朋子が演じるコーチも、熱血コーチではない。それぞれが負の要素を内側に抱え込んでいるからこそ、水面を音もなく滑るボートが憧れの対象となるのだ。これも、古典的な構図と言えるだろう。そして、現代ではなかなか成立しない構図とも言える。

 ベタベタとした、お説教くさい青春映画になることを極力避け、あっさりとした感覚でさらりと描きながらも、ラストの決勝のシーンでは、思い切ったスローモーションで、少女らの一人一人の「がんばり」を、心にしみるように描き出す。それは、今まで抑えてきた感情の描写が一挙に解き放たれ、胸を締め付けるような感情の波動を見るものに伝える。

 一つのことに懸命に取り組む純粋な情熱の美しさを見事に描ききった磯村監督に拍手だ。


(1998/12)