フラワーズ・オブ・シャンハイ

監督:侯孝賢


 芳醇な酒をゆっくりと味わうような気分で見た。

 とりたててドラマチックな筋立てがあるというのではない。上海の遊郭の女たちの人間模様が抑えた演技と華麗な色彩でつづられる。冒頭のジャンケン飲み(日本で言えば土佐の箸拳に似ている)をして興じる上流社会の男たちの姿を、かすかな哀愁を帯びた音楽をバックに、カメラはゆりかごのようにゆっくりと揺れながらとらえる。えんえんと続くその酒宴は何のきわだった変化もなく、そこにはただ熟成しきった時間が、かすかな腐臭をただよわせながら流れていく。

 その時間の中に、王(トニー・レオン)は憂鬱な顔を浸している。女たちは、魚のようにゆっくりと男たちの間を泳いでいる。

 小紅役の羽田美智子が美しい。上海語は吹き替えなのだろうか、かそけく言葉を発するその憂愁に満ちた顔には、さざ波のように悲しみと喜びが交錯する。わけもわからぬ女の不機嫌に、男は苛立ち、優しい言葉に微笑む女に男はときめく。しかし、その苛立ちもときめきも、男の生きる時間を未来に向けて充実させるものではなく、煮詰められたスープをただいたずらに掻き回しているかのようだ。

 自立を求めて、飛び出す気の強い女、仲間にいじめられてメソメソ泣く少女。すべては、自閉的な世界の中のどうでもいいような些細なことばかり。その些細な感情的なもつれが、男や女の生きる場所。そして、何度も執拗に繰り返されるジャンケン飲みの宴会シーン。ときには外で喧嘩が起きる。どうした、と男たちは窓辺に駆け寄る。しかしカメラはそれを追わない。どのみち彼らは戻ってくる。この饐えたような空気の支配する、居心地のよい酒宴の席に。カメラはそれを確信するかのように、待つ。案の定男たちは戻ってくる。そして宴会は続く。時間は流れるというよりも、ほとんど停滞している。歴史というものがある目的に向かって流れていくものだとするなら、ここにはそうした歴史的な時間はない。この閉塞的な時間を、侯孝賢は、じっとみつめている。出口のない時間に彼は何を見ているのだろうか。

 小紅が心ならずも一緒になった役者(赤い帽子が印象的だ)の隣で、ぼんやりその「時間」に身を浸しているラストがいつまでも哀愁を帯びた音楽(半野喜弘)とともに心に残る。

 

(1998/10)