カンゾー先生

監督:今村昌平


 深い感動をもって見終えた。ここには、往年の「ニッポン昆虫記」や、「神々の深き欲望」に見られたようなセックスがそのまま生きるエネルギーとして感じ取られるような、むせ返るような力は感じ取ることはできない。しかし、それは、今村監督が、老いたということではなく、セックスの向こう側にしっかりと目を据えてみせたということではなかろうか。

 ラストの方で、ソノ子(麻生久美子)がクジラを捕まえるといって海に飛び込むシーンがある。ソノ子はモリを突き立てたクジラに海中を引っ張られていく。青い海の中へ引き込まれていくソノ子のモンペがすうっと脱げ、きれいなお尻が丸出しになる。そのシーンの何という美しさ。船に戻ってきたソノ子は、裸身を惜しげもなく先生の前にさらしたあと、「先生、私のお尻をぶって」といって、船底にながながとうつぶせにねそべる。その輝くような美しいお尻に背広を脱いでかけてやるカンゾー先生(柄本明)のため息。「先生も私のこと好きでしょ?」とソノ子に聞かれて、「好きだというよりもなあ」と答えるカンゾー先生。

 ただのヒヒオヤジなら、一も二もなくソノ子の裸身にむしゃぶりついていくだろう。そうしないのは、カンゾー先生がそうできない小心者だからでもなく、道学者ぶって自分の欲望を抑えたからでもない。ソノ子の愛情表現は、そのような形でしかできないものであることを承知の上で、それに具体的に答えることだけが愛の形ではないことをカンゾー先生は知っているのである。しかし、それを、ことばでソノ子に説明することはできない。

 自分の子どもより若い女に「好きか?」と聞かれて、「好きだ」と言ったからといって、そこから恋愛が始まるわけではない。むしろそこには、好きとか嫌いとかいう感情を越えた、いわば人間的な連帯感のようなものが生まれている。それは、決して観念的なきれいごとではない。最も、深いところでの人間同士の共感のようなものだ。もちろん、若いソノ子には、そんな感情は理解できない。「男の中の男」であるカンゾー先生に憧れ、崇拝しているだけだ。ただ激しい感情を先生にぶつけているだけだ。その一直線の初々しさはその肉体のまぶしいまでの健康さとともに、こちらのこころにまっすぐに突き刺さってくる。しかし、そうした切実な情熱よりももっと深いところで、カンゾー先生の心は動いている。そこが、何よりもこの映画の素晴らしいところだ。

 そうしたセックスを越えた人間の連帯感が描かれる一方で、セックスそのものは、ゆがんだ形、矮小な形、滑稽な形でしか登場しない。ソノ子を裸にして変態的な写真を撮る軍人の性欲の薄汚さ、紫雲閣の女将のトミ子(松坂慶子)に言い寄り、いざというときに「外」で果ててしまう池田中佐(伊武雅刀)の滑稽さ。これらは、いかにも人間的ではあるが、人間愛からは程遠い。

 その逆のセックスが、ソノ子のおさななじみの男が女も知らずに出征するのは可愛そうだから、女を知らない男は戦死しやすいから、といってその母親(渡辺えり子)に懇願されて、ソノ子がそれを承諾するという話で描かれる。お礼をという母親に、お金はいらない、友達だから、というソノ子。今村監督は、この場面では、セックスそのものをまったく描かない。ただ、ことが済んだあと母親の船で帰っていくソノ子を夕暮れの海の中に描くのだ。そして、ソノ子は、その海に飛び込む。初めて女を知った男の喜びと悲しみの匂いをその海に溶かすかのように。その画面の清浄感は、崇高でさえある。

 ソノ子を演じた麻生久美子は鋼のような少女の強さを演じきって見事だったし、その他トミ子を演じた松坂慶子の清潔でいて淫らな色気、唐十郎と世良公則のそれぞれに持ち味を出した破滅型の人間像など、柄本明の誠実でしかもとぼけた演技とともに、深く印象に残った。
 

(1998/10)