シティ・オブ・エンジェル

監督:ブラッド・シルバーリング


 先日、生徒に「食べる」ということをテーマに作文を書かせた。その中に、食べること、汗を流すこと、しゃべることが、とても汚く思えた時期があったと書いている生徒がいた。それも小学生の頃にである。今は、そういう気分からは脱出したものの、やはりその頃に抱いた「浄化された人間」への憧憬は消えることがないと彼は言う。食べない、汗を流さない、しゃべらない、要するに生身の人間としての生命活動をしないということで、それが「浄化された人間」だとするなら、それはある意味では「天使」の姿だと言ってもいい。

 肉体は精神の牢獄だといったのは、たしかプラトンだったと思うが、確かに、我々は肉体を持っているがゆえに、自由から見放されている。我々が、極めて限定された地域の中で生き、極めて限定された時間の中で生きることを余儀なくされるのも、肉体があるためである。精神的な存在である「天使」は、まさに、自由そのものの存在なのだ。

 その天使が人間を愛したとき、天使は天使であることに満足できなくなる。それは、単純に言えば、肉体的な感覚の中で、愛したいと思ったからだということになる。キスをしても、何も感じないことに耐えられない。セックスの快感もないのなら、それは恋愛とは言えないということだろう。しかし、主人公の天使セスが天使であることをやめ、いわば「堕天使」として「人間」になるのは、そうした肉体的な快感を味わいたいがためではない。肉体的な快感などなくても、愛は十分に成立する。

 問題は、自由が愛を妨げるということだ。愛と自由は同義語のようにさえ、扱われることがある。しかし、絶対的な自由は、愛の敵なのだ。

 好きな人の所にいつでも自由に行けるのなら、デートの時間に間にあわないといって、焦ってタクシーをとばす必要もない。そのかわり、約束の時間に遅刻したことから生じるちょっとした諍いによってお互いのエゴイズムに向き合うチャンスを逸してしまうのだ。人間が向き合う愛は、決して抽象的な愛ではない。愛とは、生身のエゴイズムに満ちた、あくどくて、ずるい人間が、いかにしてもう一人の生身の人間との関係を構築するかという一つの困難な事業なのだ。自由は、そうした困難な事業としての愛の成立を最初から不可能にしてしまう。

 天使のセスが、地上に血塗れになって墜落して人間になったとき、その体から流れる血をみて喜びの表情を浮かべるのも、そのように傷つく生身の人間になったことこそ、愛を可能にするものだということをセスは知っていたからだろう。

 残念ながら、この映画は、その示唆に満ちた愛の出発点のあと、まさに平凡なラブストーリーとしての展開をし、センチメンタルな涙を観客に提供することで、上質の娯楽映画となってしまった。

 「かつて地上に存在したことないピュアな恋」というのを、この映画の宣伝文句として使っていたが、「ピュアな恋」から「ピュアでない愛」への展開がなければ、ほんとうの意味での「愛を描いた映画」にはならないだろう。そうしないのは、先の高校生にも見られるとおり、「浄化された人間」への憧憬が、現代の若い人たちのなかに大きな流れとしてあることを見越してのことなのかもしれない。

 しかし、そういう評価とは別のこととして、ニコラス・ケージとメグ・ライアンは十分に魅力的だったし、何よりも、天使が図書館に住んでいるというイメージが、新鮮かつ象徴的で素晴らしかった。深刻な愛の映画としてではなく、一編の映像詩として楽しむ映画だといえるだろう。
 

(1998/10)