遥かなる「女」

長崎俊一「誘惑者」


 透明な色のついた光で白いスクリーンに映像を写し続ける映画は、当然のことながら、様々なイメージをぼくらに与えてくれる。それは映画のほんのワンシーンである場合もあるし、映画全体の雰囲気というようなものであるかもしれない。いつまでも心にのこるイメージを獲得することが、映画を見るひとつの楽しみでもある。

 小学生の頃、町内の子供会で、毎月のように映画を見た。町内にあった「金美館」という東映の専属館で見た時代劇の数々は子供心に強烈なイメージを刻みこんだ。大奥の御簾の前で、向こう向きに立ったお姫様が、突然着ていた着物を全部ハラリと落とし、全裸になってしまったシーン、接吻をしながら女が口に含んだ毒の丸薬を殿様に飲ませてしまうシーン、あれは一体何という映画だったのか。映画の題名も筋もそして俳優すらも覚えていないが、そういうシーンだけは今も記憶に残っている。映画というものは、そういうものなのかも知れない。そしてあの時の頭の芯が痺れるような感覚は、映画のみが与えてくれたものだ。今もぼくが映画に求めているのは、そうした、イメージに他ならない。

 『誘惑者』には映像・音楽・ストーリーの全てに、透明で冷たい風が流れている。その風の中で、ぼくは思わず声をあげそうになるようなイメージに何度も出会った。例えば、車の窓からの風になびく美也子の髪とドライヤーの風になびくはるみの髪というイメージ。そこに、この映画の一つの鍵があるように思えるのだ。その二人の髪を外村は別々の時に見ているのだが、意識の中で重なってくるのだ。そして、そのときの外村は、なぜかぼんやりとその髪を見ている。そこにあるのは、女というものに対する男の永遠の憧れなのだとぼくには思える。その憧れというのは、決して男が到達しえないもので、女にだけあるものだ。萩原朔太郎が、例えば「寝台を求む」という詩の中で「私たち男はいつも悲しい心でいる/けれどもすべての娘たちは寝台をもつ」「すべての娘たちは 寝台の中でたのしげなすすりなきをする/ああ なんというしあわせの奴らだ」と歌ったような女への憧れが、男にはある。美也子の部屋で、外村の見ている前でベッドへ倒れこんで愛撫をする二人の女を前にして、外村はただ茫然と見ているしかない。愛そうとして愛することのできない朔太郎の悲しみを、外村も共有しているのかも知れない。

 風に靡く美しい髪を男は絶対に所有できないし、モスグリーンの木綿のような生地にピッタリと包まれるきめ細かい肌を所有できない。朔太郎が先程の詩の中で「このまつ白の寝台の中では/なんという娘たちの皮膚のよろこびだ/なんといういじらしい感情のためいきだ」と歌ったように、二人の愛撫はかぎりなく優しい。そういう優しさに満ちた愛の関係を前に、男は歯噛みしながらも、立ちさらざるを得ないのだ。

 女は、男の身近にいて、そして遥かな存在である。その女へのかぎりない憧れを、イメージの限りをつくして、この映画は語っているように思えるのだ。 それにしても『誘惑者』は、なんと、硬質で透明な叙情に満ちた映画なのだろう。まるで磨きぬかれた水晶のような映画の出現に対して驚きの声があまりにも少なかったと思うのはぼくだけだろうか。

【「長崎俊一レトロスペクティヴ」パンフレットより転載】