読んでから見るか、見てから読むか

映画・小説・ビデオ


 一昔前の有名な宣伝文句に「読んでから見るか、見てから読むか」というのがあった。小説の映画化にあたって、書店がその原作を売ろうというので発案された宣伝文句であったと思う。「読んでから見ないか、見てから読まないか」などとまぜっかえしたりして面白がったものだが、確かに今までの小説で、それが映画化されている場合、「読んでいるが見ていない」ものや「見ているが読んでいない」ものなどが多数ある。そうそう書店の言うままにはならないわけである。

 この夏休み、ぼくにしては珍しく、「読んでから見る」という体験を意識的にしてみた。小説は「薔薇の名前」、映画の方も同名で「薔薇の名前」。夏休みに見た「愛人」という映画がとてもよくて、その監督であるジャン・ジャック・アノーの前作を見てみたくなり、たまたまビデオにとってあった「薔薇の名前」をまだ見ていないことに気づき、さっそく見ようと思ったのだが、その前に原作を読んでみようと思って、上下二冊の原作を買い込み、読んだというわけである。これが、滅法おもしろかった。推理小説としての面白さだけではなく、中世ヨーロッパの修道院の様子、その中で戦わされる神学的な議論、とりわけフランシスコ会がどのような立場にあって、どのような迫害を受けたのかというようなことが生々しく描かれており、文字通り息を飲むようにして、二日で読みおえた。さてその翌日、ビデオで映画「薔薇の名前」を見た。淀川長治が「あんなに難しい小説をよく映画化した」と褒めていたほどには感心しなかった。むしろ池澤夏樹が「すばらしい挿絵として見た」という批評の方がぼくにはぴったりきた。小説を読みながら自分で作ったイメージをさらにしっかりと補強してくれるような映像だった。修道院のたたずまい、その中の厨房や、図書館や、また修道僧たちの服装などは、まさに「すばらしい挿絵」だった。中世の修道院の姿の再現に並々ならぬ熱意をもって取り組んだ映画であることは確かだった。けれども話の筋にしても、中で戦わされる議論にしても、小説を読んだ後の目には、ほとんど「かいつまんで」という程度にしか過ぎず、当然のこととは言え、もの足りないことおびただしかった。そして、なによりも、許しがたいと感じたのは、ラストの方で異端審問官が原作では意気揚々として引き上げていくのに対して、映画ではなんと修道院を出るやいなや殺されてしまうという「改変」だった。これでは「水戸黄門」で悪代官が最後には切って棄てられるのとなんら変わりなく、この思想的、神学的な深みを湛えた原作を、結局は娯楽推理映画にしてしまったことになる。映画は決してハッピイエンドであったわけではないが、審問官を殺すことでなにか見るものの胸のつかえおりさせるような効果をねらっているのがみえみえで不愉快だったのだ。

 映画は、娯楽であってなんらかまわないという意見もある。というよりは、元来、映画というものはそうしたものなのかも知れない。一昔もふた昔にもなるが、日本映画が全盛をきわめていた頃、映画館のまわり何重にもとりまいて開館を待った観客は、確かに娯楽を求めていたのかも知れない。だからこそ、テレビが豊富に娯楽を提供するようになると、映画は急速に衰えていったのだろう。ぼくは、別に娯楽というものを毛嫌いしているわけではない。娯楽は娯楽で結構だと思っている。しかし、映画は娯楽でいいんだ、芸術性など追求すべきじゃないんだというふうに言うわけにはいかない。娯楽と芸術はどこが違うか。簡単に言えば、娯楽は「享受者に媚びるもの」だ。面白いから娯楽なのではない。製作者が、享受者の面白がりそうなことをかぎつけ、あるいは調査し、それにあわせて作るもの、それが娯楽だ。芸術は媚びない。それだけの違いだ。しかしその違いは限りなく大きい。

 ぼくが、映画は娯楽でいいんだなどと言えないのは、すでに映画の芸術性をとことん追求してくれた多くの映画監督の作品に接してきたからだ。イタリアの監督、パゾリーニの「テオレマ」という作品が日本で公開されたとき、そのラスト、絶望した主人公の男が、突然混雑する駅のプラットフォームで衣服を全て脱ぎ捨て、歩き始める、すると場面は突然砂漠にかわり、その砂漠のなかを全裸の男が腕をいっぱいに広げて大声で叫びながら歩いていくという場面で、ぼくの隣に坐っていたサラリーマン風の数人の男たちは何だこれはと言って笑いころげた。パゾリーニはそんなふうに笑われることなどまるで頓着しないで映画を作った。ジャン・ジャック・アノーと比べて、なんと志の高いことだろう。いや、そんなのは、志が高いとかいうことではない、ただ傲慢なだけだという人もいよう。しかし、人に理解されようとか、受けようとか、そんな心情は卑しいし芸術からはもっとも遠いものだ。表現したいことのぎりぎりを表現する、そこにのみ感動はある。

 閑話休題。ぼくが「見てから読まなかった」映画の代表は、ルキノ・ビスコンティ監督の「ベニスに死す」にとどめをさす。原作はドイツの小説家トーマス・マン。この映画は最低十回は見ているが、原作を読もうという気にどうしてもなれない。恐らく読んでも、この映画以上の感動は得られないと確信しているし、小説によってこの映画の印象を変えられたくないのだ。それぐらい凄い。それにもかかわらず、この映画が日本で公開されたとき、あっと言う間に上映を打ち切られてしまい、それを見逃したぼくは何と次の劇場公開まで一年間待たなければならなかったのだ。真に芸術的に優れた映画の運命というのはいつもこんなものだ。これは原作ものではないが、今村昌平監督の「神々の深き欲望」も、最初の上映を見逃してしまったらやはり一年近く上映がなかったという記憶がある。

 今では、ビデオが発達して、そうした映画も割合手軽に見られるようになった。そういう意味では、映画は小説のように見ることができるようになったとも言える。それがはたしていいことなのかどうかはわからないが、「見てから読もう」とか「読んでから見よう」とかいうことを計画的にできるようになったという点では、喜ぶべきだろうと思う。映画はやはり映画館でというのが、依然として鉄則だが、それでもぼくはビデオの普及を何よりも嬉しく思っている。大学生の頃のぼくの一番の夢は、もし家庭用のビデオなどというものが普及して安く手に入るようになったら、それで自分の映画のライブラリーを作ろうということだった。しかし、その頃のぼくらには、それは夢のまた夢、とうてい実現しそうになかった夢だった。それが、いとも簡単に実現してしまい、いまではその有り難さも薄れてしまったが、それでもぼくの映画ライブラリーは少しずつ膨張し続けている。楽しみは尽きることがない。