子供は判ってもらえない

トリュフォー『大人は判ってくれない』


 どの時代でも、どの国でも、子供たちは常に犠牲者だ。社会や制度が、大人中心の価値観によって出来上がっているのだから当然と言えば当然の話だ。学校にしても、子供たちが考えた機関ではない。大人が、子供を「どうしたらよいか」「どういう者にするか」と考えて作った機関だ。現代の学校にしても、子供たちの要求を入れて、結構「ものわかりのいい」場所になっているようにみえて、実際には根本ではなにも変わっていない。依然として大人の論理だけがまかり通っている。そのことを肌で感じているのは子供で、大人はかつて感じていたのにもうすっかり忘れている。家庭も、今では「子供中心です」などと言っている親がいるが、実際には家庭の仕組みそのものはあくまで大人中心である。子供の論理は(もっとも厳密に言えば子供の論理などというものはない、あるのは感性だけだ)家庭でもまるで通用しない。子供は常に特別視され、それゆえに一種の異物として取り扱われる。子供は「いつかは大人になる存在」以外のものではない。「そんなこと考えるのは子供だからですよ。あなたもいつか大人になればわかるわよ。」そんな言葉を子供は何度聞かされたことだろう。子供にしてみれば、大人になってわかったところで仕方がないのだ。子供には今しかないのだから。だから、未来のために今を浪費する子供たちほど悲劇的な存在はない。しかしながら、すべての子供は大人になる運命にあるから、子供たちは多かれ少なかれ今を犠牲にせざるをえない。そこにすべての子供たちの悲しみがあるのである。

 トリュフォーの『大人は判ってくれない』で描かれるのは、まさにそうした子供の悲しみである。多少戯画化されているが、学校の教師の陰険さ、まぬけさ、小権力者ぶりが克明に描かれる。そういう教師に反抗する子供たちの姿も愉快だが、それと同時に、教師の圧制のもとで苦闘する子供たちの姿もまた見事に描かれる。一人の少年が、黒板の詩を書き写そうとして、何度も失敗し、ノートを破きつづけ、しまいにはノートが表紙だけになってしまうシーンなど、何度見ても笑いを誘われるが、無意味な勉強が(大人の論理によれば、もちろん有意義な勉強なのだが)いかに少年の心をボロボロにしてしまうかという暗喩にも見えて、悲しくなってくる。

 主人公のアントワーヌは、母の連れ子で、父は従って義理の父ということになるが、この二人の親が、実に不可解な存在である。母は、自分の子でありながら、アントワーヌに冷たく、厳しく、自分勝手な生活をしている。そのくせアントワーヌが家出をすると、今度はとってつけたように優しくなったりする。父は、ユーモアがあって、アントワーヌを可愛がっているようで、実はまるで子供を理解していない。二人の愛情は気まぐれで、真剣みがないのだ。親の気まぐれな愛情ほど子供を困惑させるものはないだろう。親の愛情は、どんなときも変わることのない安定性をもっていてこそ、子供を育むことができるはずだ。アントワーヌが求めていたのもそうした安定した愛情だろう。親子三人で映画を見にいく場面があるが、そこでアントワーヌは心の底から楽しそうに笑う。あまりに楽しそうで胸が切なくなるほどだ。そのいかにも楽しそうなアントワーヌの笑い声が、子供の幸福とはどんなものなのかを教えてくれる。

 子供は笑い、そして必ず泣く。子供の幸福とは、泣くまでのはかない時間にしか存在しない。そしてそれは実は大人についても同じことなのだ。しかし、大人は泣かないですむ幸福を手にいれたがる。だから、子供たちはいつも「判ってもらえない」のだ。

 冒頭の流れるようなカメラワークによって写しだされるパリの街とエッフェル塔の映像を見たときから、われわれはトリュフォーのみずみずしい感受性の世界に引き込まれる。そして、何の説明的な描写もなく、ただ海に向かって走っていくアントワーヌの姿に、少年の夢と悲しみの全てを見る。この映画はトリュフォーの紛れもない傑作である。