活劇の面白さ

ジョン・フォード「駅馬車」


 映画の楽しみの原点に「活劇」ということがあることは、忘れてはならないことだろう。つまり、映画はもともと、写真が動くということに限りない喜びを見いだした人たちによって生み出されたということなのだ。舞台の上の芝居をそのまま写しても、映画になるかもしれないが、それでは映画は単なる演劇の代用品でしかないことになってしまう。舞台の上では絶対に表現できないもの。それが例えば、馬の疾走である。

 ジョン・フォードと言えば、西部劇の神様とまで言われ、その『駅馬車』とくれば、それこそ極め付きの名画ということにもなる。その中でも、もっとも素晴らしいのはアパッチの襲撃シーンである。疾走する駅馬車、それを追う大群のアパッチたち。その猛烈なスピード感は、圧倒的で、これが1940年の作品かと思うほどすごい。カメラを地面に埋めて、その上を走り抜ける駅馬車やアパッチの馬のシーン。疾走する馬をとらえる移動撮影の見事さ。この数分にわたるクライマックスシーンは何度見ても飽きるということがない。前回の『激突!』でも、追いかけてくるトラックの猛烈なスピードについて触れたが、やはりこのスピード感が、映画の醍醐味というものなのである。このシーンに比べるとリンゴー・キッドとルーク兄弟の決闘シーンは敢えて肝心な所を撮らないで、淡白に仕上げている。あくまで、馬の疾走こそがこの映画の眼目であることを強調したかったのであろうか。

 もちろん、『駅馬車』の魅力はそれにつきるものではない。同じ馬車に乗り合わせた人々の個性・人格が、楷書で書かれた文字のようにキッチリと描き分けられている。それはあまりにキッチリしていて、今見るとかえって面白みに欠けるうらみもあるが、それにしてもうまいものだ。中でも、町を追放された娼婦を演じるクレア・トレヴァーの演技が切なくていい。だからラストシーンは、ちょっと話が旨すぎるにしても許せてしまう。若いジョン・ウェインも、若い日の石原裕次郎を見ているようですがすがしい。

 アメリカインディアンを単なる悪漢、掃討すべき野獣のようにしか描いていないという点に、不満を洩らす批評家もいるが、それは時代の限界というものだろう。一九七〇年代に入って、『ソルジャー・ブルー』のような、インディアンの側から描いた告発映画もあったのだが、もちろんそれはベトナム反戦運動の時代的な意識を背景に出てきたものだった。その方が歴史認識としては正しいだろうが、やはり、騎兵隊vsアパッチという古典的な戦いの構図が、西部劇の面白さの一翼を担っていたことも確かである。今、再び西部劇の復活という現象があるが、『駅馬車』のような単純な面白さはすでに求むべくもないのは残念なことである。