切なき思いを知れ 

侯孝賢『恋恋風塵』


 人を本気で好きになることは、ずいぶん切ないことだ。それは、有限の存在である人間が無限を夢見ることだからだ。

 出会いは、別れをすでに内包している。人を好きになった人間の敏感な心は、そのことにすぐに気づくから、胸を締めつけられるような切なさを味わうのだ。

 初めてこの『恋恋風塵』を映画館で見たときは、ぼくの心は、そのような敏感さを失っていて、なんで最後にホンがワンを捨てて別の男と結婚してしまうのかがわからなかった。薄情な女だなあなどと思った。まったくもって鈍感な人間というのはどうしようもないものだ。二人が本当にお互いを好きなら、結局二人は結ばれるはずだ、などと思い込んでいるのだから。もちろん人間の心は、そんな機械的なものではない。この映画を、5分でも見れば、ふるえるような若い心の恐れと憧れとを痛いほどに感じるはずだ。

 それにしても、いじらしいという言葉は、この映画のヒロインであるホンのためにあるかのようだ。特に、ワンのために作ったシャツを、ワンに着せるホンの表情やしぐさを見よ。着せおわってから、隣の部屋に戻っていくときのホンの足取りに、表現されているホンの心の内のときめき……。

 一方ワンの方も、いじらしさ(けなげさと言ったほうがいいか)では、決してホンに負けない。父に買ってもらった時計を見ながら夜学で勉強するそのワンシーンだけでも、ぼくは涙が出そうになる。けれども、こと恋愛に関しては、ワンはまだあまりにも幼く、生真面目すぎる。自分が相手のことを好きならばそれでいいんだといった所がある。自分の抱えている生活の辛さが、ワンには大きくのしかかりすぎていて、ホンを愛するということはどうすることかが分かっていない。それでも、自分の愛の真剣さを疑いはしないから、相手も必ずわかっていてくれるはずだと思っている。

けれども、ホンは、女性は、「愛される」ということは、そういうことではないと感じているのだ。そこに、二人の「別れ」の必然性があったのだと、今のぼくは考えている。

 『冬冬の夏休み』にも、幼い心の中に刻みこまれた人生の喜びと悲しみが見事に描かれていたが、この映画では、それがさらに深い陰影をともなって、しみじみとしたタッチで描かれている。心ゆくまで味わいたいものだ。