至福の時間

侯孝賢『冬冬の夏休み』


 侯孝賢の代表作が『悲情城市』であることに間違いはない。登場人物の造形の深さ、社会的な広がり、全体を包む空気の濃密さなど、そのどれをとっても『悲情城市』は比類のない映画だ。それに比べるとこの『冬冬の夏休み』はずっとスケールの小さい作品である。

 兄と妹が、おじいちゃんの住む田舎に夏休みを過ごしに行くというだけの話。その田舎で起きる出来事も、そんなドラマチックなものではない。けれども、その一つ一つの出来事が、何というこまやかさで描かれていることだろう。そこには子供たちの、親や若者の、真実の姿がある。そして何と言っても全編に溢れる豊かな詩情。ぼくにとってこの『冬冬の夏休み』は、かけがえのない映画なのだ。

 同じ子供を主人公にした映画でも、例えば、アメリカで大ヒットした『ホームアローン』と比べると、子供の描き方のあまりの違いに誰でも驚くだろう。『ホームアローン』の子供は、結局のところ、アメリカの大人たちが、夢に描く子供の理想像に過ぎない。しかし、侯孝賢の描く子供たちは、ごくありふれた等身大の子供であり、そしてそうであるが故に、子供特有の詩的で神秘的なありようをおどろくほど精妙に表現しえているのである。

 この映画は、エンターテイメントに徹したハリウッド映画や伊丹十三などの映画とは根本的に異なり、下手をすると観客が退屈しかねないくらいに寡黙な映画である。様々な出来事が起きても、映画はそれを誇張して描くことをしない。例えば、ラストの方で、冬冬の母親が重態に陥った沈鬱な夜と、そして翌朝の描写。下手な監督なら母親を案ずる子供を泣きわめかせるだろう。母親の病室も写すだろう。看護婦の額の汗とか、母親のうめく声とかを強調して、観客の不安感をあおるだろう。しかし、この映画は、それら一切のことをしない。時間は静かに重く過ぎていく。そして、突然朝の場面になる。母親はどうなったのか、それは、画面の色と空気が説明する。透明な澄んだ朝の空気、そしてその中に佇む夫婦。その姿を見たとき、ぼくらは「助かったのだ」と直観するのだ。まさにそれは至福の時間である。生きることの悲しみと喜びをこれほど静かにそして切々と描いた作品は、そうざらにあるものではない。

 この映画には、冒険活劇のようなワクワクさせる面白さはない。しかし見おわってしばらくすると、この映画の一つ一つのシーンが、ぼくらの心の中で宝石のように大切な思い出に変わっていることに誰もが気づくはずだ。侯孝賢もインタヴューに答えてこう言っている。「思い出は時間がたつほど美しくなります。」なお、映画の中で冬冬が暗唱する詩は、王維の「九月九日憶山東兄弟」と、作者不詳の「古詩十九首」で、どちらも子供たちが学校で必ず覚えさせられる詩だそうである。