死ぬのは難しくない、生きるのが難しい

ロッセリ−ニ「無防備都市」


 「死ぬのは難しくない、生きるのが難しい」。これは、処刑直前に、付添いの神父から「しっかり」と励まされたピエトロ神父の口から洩れる言葉だ。猪俣勝人の『世界映画名作全史』では、「立派に死ぬのはむつかしいことではない。しかし、正しく生きることはむつかしいのだ。」というふうに引用されている。何度もLDでその場面を見てみたが、LDの字幕「死ぬのは難しくない、生きるのが難しい」の方が、言葉の長さからみてもいいように思える。映画では、せりふが重要な意味をもつことは言うまでもないから、原語がわからないというものはやはり大きな問題である。

 しかし、それはそれとして、「立派に死ぬのはむつかしいことではない。しかし、正しく生きることはむつかしいのだ。」より、「死ぬのは難しくない、生きるのが難しい」の方がずっと強いインパクトを持っていると僕には思える。前者では難しさは、「死に方の立派さ」ではなく「生き方の正しさ」だというように、「立派さ」「正しさ」という観念が優先している。そして、それは、どうも猪俣氏の思い入れのように思われるのだ。ピエトロ神父は「正しさ」を追求して「立派に」死んだのだのだという猪俣氏の感想がそのようなふうにせりふを変形させたのではなかろうか。

 ピエトロ神父は、何も立派さを追求して死んだのではない。付添いの神父が、死を前にしたピエトロ神父が死を恐れるのではないかと思って励ますのに対して、本当に大変なのは生きることなんだよと言っているのだ。自分としては、同志を裏切ることはできないから死ぬしかないわけだし、それは別に困難なこととも思われない。しかし、君は、これから生きていかなければならない。それは実に困難なことだ。だからしっかりしなければならないのは君なんだというのが、ピエトロ神父の言いたかったことだろう。

 生きるのが難しいのは、戦後のナチス支配下のローマだけではない。正しく生きようが間違いだらけで生きようが、そんなことは実は問題ではない。そんなちっぽけな道徳的な観点は、結局は相対的なものに過ぎないし、昨日の正しさは今日の過ちとは歴史の与える最大の教訓だろう。しかし、どんな状況下でも、人間は生きなければならない。そして生きること、そのこと自体の困難性は、いつの時代でも変わりはないのだ。

 この映画全体を覆うのは、まさしくそうした生きることの難しさである。それを「正しく生きることの難しさ」ととるのは、映画を道徳的なものに矮小化することになるだろう。ぼくらは、生きることが実は困難きわまりないことなのだということを、この映画からしみじみと学ぶことができる。生きることがそんなにも難しいことならば、ぼくらが生きていくうえで悩むのはむしろ当然のことではないか。嘆き、哀しみは、ぼくらの生活そのものではないのか。ただひたすら安心と快楽と安定を求めたぼくらは、どこかで、その生きることの困難性という生の前提を学び忘れていたのではなかったか。そんなふうな反省をこの映画はぼくらに促している。そしてその反省は、ぼくらに不思議な慰めをもたらすように思えるのだ。