映画と小説(1)


 愛読している小説が映画化されたとき、多くの人ははがっかりしたり憤慨したりする。小説を読んで自分の中で作り上げていたイメージとどうしても食い違うからである。ぼくの場合もそういうことがないわけではない。「伊豆の踊り子」が内藤洋子でも、吉永小百合でも、山口百恵でも一向にかまわないが、「風たちぬ」を山口百恵と三浦友和でとなると、見に行く気すら起こらない。「伊豆の踊り子」の場合は、むしろ色々な女優が演ずるのを見たいという気持ちが強いし、それぞれに楽しめる。谷崎潤一郎の「細雪」にしても四人の姉妹をどういう組み合わせでキャスティングするかには大いに興味をそそられるし現に市川崑による映画化では、岸恵子、佐久間良子、吉永小百合、古手川祐子という豪華な顔ぶれで、中でも吉永小百合の圧倒的な神秘性が群を抜いていて、身の震えるような思いをした。しかし、「風立ちぬ」は、どうしても誰が演じようと見たくない。それは、どのように演じようと、どのように演出しようと、「風立ちぬ」の映画化は、安手のメロドラマにしかならないことが目に見えているからだ。通俗的なメロドラマすれすれの筋立ての小説は、映画化されるとその通俗性のみが際立つということになるだろう。

 それにしても映画というのは幸福な芸術だと思うのは、例えば森田芳光の「それから」で、三千代が生け花の水盤の水を飲んでしまうという場面の息をのむような切れ味するどい映像表現を見るようなときだ。三千代が百合の花を抱えて代助の家に来て、水盤の水を飲んでしまうまでの映像はおそらく1分に満たない時間で、あっというまに過ぎ去る。しかしその部分に限って言えば、夏目漱石の文章が拙く思えるほどに圧倒的に原作を上回っている。小説も映像を生むが、映画の映像にはどうしてもかなわない。

 しかし同時に、映画は時間に制約されるという不幸をも背負っている。映画「薔薇の名前」は、難解な原作をよくここまで映画化したと称賛されてもいるが、原作を読んだ目では、細部の説明不足が目立ち、それ以上に話の改変に許しがたいものを感じもする。それは時間の制約と共に、大衆への媚でもある。しかし、また池澤夏樹の言うように「すばらしい挿絵」として見るならば、この映画は大いに歓迎すべきものとなるだろう。「ブリキの太鼓」のシュレンドルフがプルーストの「失われた時を求めて」の映画化として大いに期待を持たせた「スワンの恋」のつまらなさもここで思い出される。それは美しい挿絵ですらなかった。しかしまた、原作を大きく越えてしまったとのではないかと思われるヴィスコイティの「ベニスに死す」のひとこまひとこまを、ぼくは小説の一ページのように克明に覚えている。映画はやはりかけがえのない芸術なのだ。

 鎌倉芸術館という建物が大船にできた。本格的なオペラを上演できる劇場をということで何十億だかをかけて作られたという。オペラというと何か文化的な高級な芸術のように錯覚して、オペラが愛好されない国は本当の文化国家ではないなどと外国かぶれがいまだに直らない日本人の発想はいまさら笑うにも値しないが、その鎌倉に映画館が一館もないという現状をどう考えたらいいのか。純文学の雑誌が次々と廃刊され、映画館も東京を除くとどんどんとなくなっていく日本。映画と小説こそは、日本人のお家芸ではなかったのだろうか。