映画がはじまる


 何事も初めが肝心ということがあって、たとえば芝居の場合、幕開きのシーンというのは決定的に強い印象を与える。幕の向こうが何やらざわめきはじめ、やがて拍子木がうちならされ、ザーッという重い音をたてて幕が下手から上手に向かって開いていく。目をいる華やかな色彩、あでやかな役者、観客のざわめき……そんなふうにして歌舞伎は始まる。幕開きというのは、いわば現実から非現実への橋渡しであって、ここがうまくいかないとなかなか観客は芝居の世界に入り込めない。だから、幕開きは、いつもわくわくするような期待に満ち、どこかこれから始まる出来事を予言するような象徴性に満ちている。オペラの場合だったら、序曲。小説だったら、冒頭の一句。そして映画だったら……。

 はじまりのブザーが鳴り、場内の照明がおちていくあの瞬間がぼくはたまらなく好きだ。芝居の場合は、場内の照明は必ずしも闇である必要はない。舞台と観客は対等にそこに存在して、時として役者は直接に観客に呼びかけたりもする。観客の反応は役者に直接影響を与える。ここに芝居の醍醐味もあるのだが、映画はここが根本的に違う。映画は観客の状態とはかかわりなくそこにある。観客は映画と対等な立場で存在することができない。暗闇のなかで、「我を失う」のだ。これが映画独得の魅力なのだ。場内の照明がおちていくあの瞬間というのは、今まで頑固にその存在を主張していた「自分」が消えていく瞬間、あるいは、自分が「自分」から解放されていく瞬間なのかもしれない。自分が消え、映画の世界だけが広がる。不思議の国のアリスが落ちたウサギ穴。そしてぼくらが最初に見るものは……。

 ぼくらがこの世に生まれたとき、最初に目にしたものはなんだろうか。そんなことを覚えている人間はいない。気がついたら存在していて、そしておそらく気がついたら死んでいる。つまり「はじめ」と「おわり」を、ぼくらは実際の人生で味わうことはできないのだ。ところが、音楽や映画・演劇のような時間の上にのった芸術ではその「はじめ」と「おわり」を、じっくりと味わうことができる。それも何度でも。(ちなみに、絵画のような空間の上に存在する芸術には「はじめ」も「おわり」もない。だから、絵画の鑑賞は、音楽の鑑賞よりずっと難しい。)映画では、物語のはじめにぼくらは何度でも遭遇する。その結末を知っていても、まるで初めてのように映画のはじまりはぼくらの心に期待をいだかせる。場内の照明がおちていくときの心のときめきは、多分、そうした「はじめ」との遭遇への期待なのだろう。

 壮大なスケールをもった「はじめ」があったり、ごく何気ない「はじめ」があったりする。ヴィスコンティの「ベニスに死す」は壮大な「はじめ」の代表格だ。海と空の区別もつかないただ混沌とした画面、そこに流れる一筋の煙、その煙をたどっていくと水面に浮かぶ一隻の汽船。マーラーの音楽が流れる。われわれの人生のようにそのシーンは、不安定きわまりなく、哀切だ。実際の風景としてはささいなものだが、その心象風景は果てしなく深い。一方「何気ないはじめ」では、たとえば、スピルバ−グの「激突!」。一台の車がガレージから出てくる。やがて、町中の道路、そして郊外の道路と進んで行き。一台のトラックを何気なく追い越す。それが「事件」のはじまりである。そこでおこる「事件」はきわめて異常だが、しかし、ぼくらの生活の中でおきる事件のはじまりも、そんなふうに「何気ない」のも事実だ。

「はじめ」の魅力があれば、とうぜん「おわり」の魅力もあるだろう。しかし、「おわり」にはぼくはあまりゾクゾクとしたものは感じない。多くの映画の「おわり」には、どこかしら強引なところがある。ひどいときは、今までの流れとはまるで関係のない道徳的な観念でまとめてしまうこともある。ハッピーエンドも、単なる「約束事」を守ったというだけのことであったり、逆にアンハッピーエンドも、その約束事を破っただけという安易なものも数多い。納得のいく結末のつかないのが人生というものだろう。だから、真に感動的な「おわり」を持つ映画こそ、真の傑作といえるのだろうが、そうした作品はめったにない。「ベニスに死す」にしても、その感動的な幕開きに見合うだけの「おわり」を持たない。「激突!」の場合は、一種の意外性はあるが、いかにも活劇の行き着くところであって、納得のいくものでもなければ感動的であるわけでもない。どうやら、映画の場合、「終わりければすべてよし」とはいかないようだ。

 何が起きるかはわからない、しかし、何かがどうおわるかは案外予想がつくものだ。いったん起きてしまったことに対しては、そう何通りもの「結末」がありうるわけではないからだ。だから、ぼくらは、まったく予想のつかない出来事に胸おどらせて、映画館に向かう。そして映画がはじまる。

(栄光学園図書委員会発行「矢」83号より転載)