映画は疾走する


 近代人が獲得した快楽は、煙草とレコードと何とかという言葉があったが、今、正確には思い出せない。その中に、映画は含まれていなかったと記憶する。しかし、映画は当然入れなければなるまい。映画もレコードもあまりに当たり前になりすぎて、ありがたみというものをしみじみとは感じなくなってしまったが、煙草のように社会から蛇蠍のごとく忌み嫌われるようになりでもしたら、恐らく恋焦がれるということになることは間違いないだろう。

 演劇にしても、スポーツにしても、われわれはある一定の時間の経過というものを体験するわけだが、演劇は、二度と繰り返されない掛けがえのない同時性の故に、またスポーツは、その結果に至る時間の不可逆性の故に、限りなくわれわれをひきつける。演劇や、野球をビデオで見ることの白々しさ・虚しさは、そこには、すでに過ぎ去ってしまった時間の影しかないことによる。ところが我々を魅了してやまない映画はまさに中国語でいう通り「電影」なのだ。人はよく言う。映画なんて、ただのスクリーンに映った影じゃないか、そんなものに高い金は払いたくない。それに対して、映画好きは言う。いや、それでも、映画館でスクリーンに向かっている時間こそ、他の何者にも替えがたい時間なんだ。それは、演劇や野球を見るのと何ら変わりはないのだと。しかし、実際にはどちらも間違っている。映画は「影」だからこそ、驚くべき自由を獲得したのであって、その自由を求めに我々は映画館へ行くのだ。しかし、その映画館を、劇場やスタジアムと同列に論ずることはできない。映画館にあるのは、製作者とともに生きる「同時性」の時間ではない。しかしそこにあるのは中身の抜けた影なのでもない。それは実体そのものとしての影であり、しかも、それは一回性や不可逆性に一切縛られるこのない「何度でも繰り返し見ることのできる影」なのだ。映画館は金銭さえ許せば個人でも所有できるし、そこで自分だけの映画を上映することもできる。しかし、自分だけのスタジアムなど、所詮無意味というものだろう。映画は、「動く映像」を個人が所有することができるが故に、限りなく魅力的なのだ。そのありようは、本に似ている。演劇は、一回きりの体験であり、あとはその一回きりの舞台を懐かしむだけだ。演劇の「収集」を志す者などいない。それは「収集」できないものだ。音楽の場合は、レコードの出現によって、やや演劇とは事情を異にし、映画により近いものではあるが、しかし、レコードはあくまで、文字通り「レコード」である点で、やはり映画のオリジナル性には及ばない。してみれば、映画はやはり本に一番近い。読書好きは、おそらく必然的に蔵書家であろうし、映画を愛するもので、映画のコレクションを夢見ないものがいるとは思えない。演劇好きと映画好きとは、どうやら似て非なるものであるような気がしてならない。

 「動く映像」は、その本質において記録的なものである。いわば、現実のコピーであると言えるだろう。もちろん、現実と、その映像とは、本質を異にするものであるということは言うまでもないことだが、敢えておおざっぱに言えば、やはり、「動く映像」以上に現実の姿を伝え、保存するものはない。家庭用ビデオカメラを手にした父親が、我が子の成長の記録に夢中になり、何百本というテープを作成するというのも、過ぎ去る時を、そのままに保存したいという欲求の端的な表れであろう。しかしあるテレビ番組で、そのような父親の膨大なビデオテープのコレクションを見て、その家族への執着にほとほと感心しながらも、一方でこの父親は、本当に子どもを愛しているのだろうかとふと思ったことも事実だ。子どもへの愛は、恐らく、そうした時間の保存への情熱とは違ったところにあるはずだ。そもそも、時間の保存の不可能を知ったときに、あるいは知っているという環境の中でしか愛は発動しないだろう。そのことに父親が気づいたとき、父親は、現実を写しつつ、なお現実そのものでない映像の制作に赴くだろう。現実を愛するあまり、その現実を「影」で保存できるという錯覚から醒めて、「影」そのものを現実にしてしまおうという意識の転換である。映画は、そこに誕生する。

 東京で行われた田荘荘の連続上映のプログラムが、横浜の関内アカデミー劇場でつい最近行われ、その五作品すべてを見おわった所なのだが、特に胸を打たれたのは、初期の作品『狩場の掟』における執拗なまでの狩りの場面の描写だった。弾丸に当たって脚を吹き飛ばされる鹿の姿などは、確かに見様によっては残酷で、例によって西欧人の偽善者がスクリーンに向かってブーイングをしたそうだが、それにしても圧倒的な迫力で見るものを引きつけた。モンゴルの草原を走り抜ける馬、その小振りの馬に斜めに跨がって鉄砲を構える男たち。別に格好つけているわけでもないだろうに、何という格好よさ!疾走する犬。あるいは狼。狼の侵入に怯える馬の脚のアップ。これらの映像は、映像自体の素晴らしさにもまして、その映像の作り手の歓びが直に伝わってくるという点で、感動的だった。田荘荘自身がこの映画は「撮りたくて撮った」というのだから間違いない。草原を疾駆する動物と人間の姿をフィルムに写すという映画の原点たる歓びを、田荘荘は心の底から味わっている。それはまるで映画の発祥を見る思いだ。

 そして、それと同時に、例えば、狼の疾走の映像が動物のドキュメンタリー映画と同じようなタッチで描かれながら、その狼が二人の人間を追いかけてくるというショットが示すように、見事なフィクションとして忘れがたい印象を残す「映画」となっていたことに驚きを感じずにはいられなかった。草原を二人の男が懸命にこちらに向かって走ってくる。その二人の後を数匹の狼が疾駆して追いかけてくる。望遠レンズを使って、遠近感をなくし、ややスローモーションにしたその映像は、まるで夢魔のように恐ろしい。しかしその恐ろしさも、幼い頃心のどこかで感じたことのある恐怖のようで、どこか懐かしさを伴っている。狼に襲われるというようなイメージは、童話や絵本で小さい頃からの馴染みであったが、それが、稀に見る迫力で「映像化」されたことにびっくりしたのである。そんな場面なら、ディズニーの映画にいくらでもありそうなものだが、そしていつか確かに見たような気もするのだが、ディズニーのいかにも作り物めいた映像とはまったく異質の「野性」がそこにはあった。それは、おそらく西欧人のブーイングにもめげず、自然の残酷さに目を背けずに描いた田荘荘の映像への情熱が必然的に生んだ映像だったからだろう。

 そういう田荘荘の映画も『鼓書芸人』や『李蓮英――清朝最後の宦官』などになると、そこに展開される重厚な人間ドラマは十分に感動的なのだが、初期の頃の映画を作る素朴な歓びが横溢した映画には遥かに及ばないという気がするのだ。田荘荘自身こう語っている。

〔撮影助手になって〕初めてキャメラを回したときの光景だけは、いまでも忘れられない。そのときは自分がキャメラを担当していた。モーターがグーンと回転し、キャメラがサァーッと音を立てはじめたとき、目の前の風景と事物が細かくまたたき出した。途端に、身体中の血液がカーッと沸騰した。それはなんとも形容できない快楽と衝撃だった。撮影が終わってからも、なかなか平静に戻れなかった。おそらくそのとき映画の「中毒」にかかったのだろう。もう夢中になってしまい、キャメラに触る日が二・三日きれただけで、身体に力が入らないほどだった。

『田荘荘、中国のシュール・レアリスト』

 こうした「中毒」症状は、映画にのみあるわけではないだろうが、しかし「動く映像」の魅惑は、何ものにもかえがたいものであることは確かだろう。観る方でも「中毒」するのだから、作る方がどんなにその魅惑に捕らえられるかは、よくわかるような気がする。そういう中毒症状から生まれてくる映画に魅力がないわけがない。

 これと同じようなことは、スピルバーグにも言えるだろう。最新作『シンドラーのリスト』は確かにスピルバーグの円熟を証するに足る作品である。しかし、彼の出世作『激突!』の衝撃には遙かに及ばない。『激突!』がいまどう評価されているのかは知らない。単なるこけおどしに過ぎないとか、才気だけで作った映画だとか、現代社会への皮相な批判にすぎないだとか言った批評を聞いたような気もする。一方、それを褒める側も、不気味な現代の顔の見えない恐怖を見事に映像化しえているといったような、内容本位の評価であるように思う。しかし、『激突!』は、たった一つのアイディアを「動く映像」として突き詰めていった、いわば映画への情熱という点で、比類のない映画なのだと僕は思う。『激突!』は、一つのショットが次のショットを生み出していくという、細胞分裂でも見ているかのようなスリリングな映画だ。そこには映像的アイディアの無限増殖といった気配がある。「一台のトラックを乗用車が追い越す」という何でもない行為が、次の「怒ったトラックが乗用車を追い越す」という行為を生む。それだけでは、何でもない、ごく日常的な出来事なのだが、それが映像として表現されたとき、それは驚くべき映像となる。まるで電車に追い抜かれているのかと思われるほど長いトラックの胴体。恐ろしいクラクション。この巨大なトラックがどうしてこんなスピードが出るのかと思わせるほどの猛スピードでの追撃。この一連の映像ほど心を踊らせる映像をぼくは他に知らない。胸ときめかせる映像とはこういうものを言うのだろうと、見る度に思う。しかしその後のスピルバーグの『ジョーズ』にしても『インディージョーンズ』にしても、アクションを全面に押し出して、より金もかけ、仕掛けも十分なのだが、『激突!』ほどのファンタジーを感じないのだ。それはなぜなのだろうか。『インディージョーンズ』で、巨大な岩石が追いかけてきても、それはまるでアニメーションを見ているような楽しさになってしまう。映像そのものが持っている詩的イメージの喚起力は、「追いかけてくるトラック」の方が数段上なのだ。アクションの面白さを、追求すればするほど、却ってそのアクションは詩的なイメージの喚起力を失うという結果になる。派手なアクション映画が、どうしても通俗的なものになってしまうというのも、こういう事情からなのだろうか。

 ヒッチコックの『鳥』も、「鳥が人間を襲う」という単純なアイディアが、無限に映像的な増殖を繰り返していくという点で、やはり映画の本質的な歓びを味わわせてくれる。『激突!』を作った若武者スピルバーグとは違って、老練なヒッチコックは、ありとあらゆる手練手管を使って、鳥の襲撃を映像化していく。そこに無用の意味づけをせずに、ヒッチコックはひたすら、鳥そのものに憑かれたようにアイディアを膨らませていく。田荘荘が馬や狼に憑かれたように、スピルバーグが巨大なトラックに憑かれたように。あるいは、ジョン・フォードが疾駆する駅馬車とインディアンに憑かれたように。そこには、「映画=動く映像」であることに対する限りない愛がある。

 映画、とくに日本映画の衰退が言われて久しいが、映画の魅力というものを忘れさせるのに力があったのは、言うまでもなくテレビであろう。それは映画がお茶の間で見られるようになったから、映画館に行くのが億劫になったというようなレベルの問題ではない。それは何よりもテレビが「動く映像の日常化」をもたらしたということによるのだ。考えてもみよう。テレビの出現以前、我々にとって「動く映像」は映画をおいて他になかった。厳密に言えば、『フィルム・ビフォー・フィルム』が伝えるように、素朴な「動く映像」は様々に工夫されてはいた。しかし、写真がまるで現実そのもののように動くということは映画によって初めてもたらされたのだ。その初期のころの驚きと歓びは、想像にかたくない。無声映画は、何よりも、「動く」ことへの素朴な歓びをその原動力としていたはずだ。それは民衆にとって、驚きに満ちた貴重な体験だったのだ。その体験を求めに人々はせっせと映画館に足を運んだのだ。室生犀星は、映画で外国人の女優を見る歓びを度々語っている。

 それが、テレビの出現によって一変した。「動く」ことの珠玉のような貴重さとそれがもたらす歓びは、テレビによって完全に日常化し、風化してしまったのだ。もはや映像が動くことに、だれも驚かなくなった。「動く」ことは当たり前となり、そこに何が映るのかだけが問題にされはじめた。テレビはその結果として、必然的にバラエティーショー化していき、日常により近いものほどテレビの番組として生き残っていくことになった。ビデオの発達によって、より安易な番組作りが可能となり、タレントが何か旨いものでも食っている所をとっておけば、さしあたり二時間番組ぐらいにはなり、同工異曲のクイズ番組を飽きもせず作って恥じないのが昨今のテレビの現状である。量産されるドラマにしても、恥ずかしげもなく繰り返されるワンパターンの台詞の洪水、安易な映像の氾濫である。それが「動く映像」であるというふうに小さい頃から思い込んできた若者が、映画への新鮮な感動を得ることは、考える以上に困難なのかも知れない。「動く映像」が貴重品でも何でもなく、ほとんどタダで家庭に垂れ流されている現在、何が本当に凄い映像なのかを識別する目も育ちようもない。状況は、深刻なのだ。しかしそれでも、映画が本当に魅力あるものとして生き生きと蘇るには、「映画=動く映像」への愛という原点に戻るしかないだろうと思う。

【映画雑誌「FB」第3号より転載」】

文中の作品データ

『狩場の掟』(85/中国/監督 田荘荘/撮影 呂 浩・侯 咏)

『鼓書芸人』(88/中国/監督 田荘荘/撮影 梁子勇)

『李蓮英――清朝最後の宦官』(90/中国/監督 田荘荘/撮影 趙 非)

『激突!』(71/米/監督 スティーブン・スピルバーグ/撮影 ジャック・マータ)

『ジョーズ』(75/米/監督 スティーブン・スピルバーグ/撮影 ビル・バトラー)

『インディージョーンズ 魔宮の伝説』(84/米/監督 スティーブン・スピルバーグ/撮影 ダグラス・スローカム)

『鳥』(63/米/監督 アルフレッド・ヒッチコック/撮影 ロバート・バークス)

『フィルム・ビフォー・フィルム』(85/独/監督 ヴェルナー・ケネス)