映画と小説(2)


 映画というのは、演劇よりも小説に近い芸術であると言うと不思議な顔をする人がいる。確かに映画は演劇と似ている面もある。なによりも、劇映画は演劇のように役者が出てきて演技をしている。映画に出ている俳優は、演劇でもお目に掛かる。映画は芝居をフィルムにおさめたものじゃないかと思う人もいるかも知れない。

 しかし、よく考えてみると、演劇と映画はまるでその構造が違うことがわかる。その根本的な違いは演劇というものが、厳密にいうと一回きりしか同じ舞台をみることができないのに対して、映画はまったく同じものを何度でも繰り返してみることができるという点である。もう一つの違いは、演劇は、ある一定の場所と時間を一つの舞台の上にのせるのに対して、映画は場所と時間にしばられないという点である。もちろん、演劇でも、多幕ものと言って、多くの場所、多くの時間を扱うものもあるが、それでも限度がある。映画の場合は、ロンドンと東京とパリが一分ごとに入れ代わりたちかわり出てきても一向に平気なのである。こうした映画の特徴は、小説のものでもあることは誰にでもわかることだろう。実際には映画の技法は結構小説に取り入れられてきたのだ。

 こうした似た者同士でも、映画には映画のおもしろさが、小説には小説のおもしろさがある。小説の映画化にあたっての興味は、なによりもキャスティングにある。例えば夏目漱石の「それから」を映画化するならば、代助と三千代をそれぞれ誰にやらせるかというのが一番の問題であるだろう。森田芳光監督は、代助を松田優作、三千代を藤谷美和子にやらせるという一種の冒険をして大成功を収めた。以前「それから」を読んだとき、そこに登場する三千代という女性をぼくがどのような女性としてイメージしたか覚えていないが、こんなにも可愛い女性を思い描かなかったことは確かだ。映画化されるとイメージを限定されるから嫌だという人もいようが、映画化されることによって与えられるゆたかなイメージを楽しんだほういい。ぼくらが描けるイメージは案外貧困なもので、まして女性は漠然としたイメージではつまらない。

 谷崎潤一郎の「細雪」にしても、上流階級の美人四人姉妹と言ってもそれをどうイメージすればいいのか。そこへ市川崑監督の「細雪」が登場して、岸恵子、佐久間良子、吉永小百合、古手川祐子という四姉妹を見せてくれる。映画の贅沢というべきであろう。トーマス・マンの「ベニスに死す」を読んでも、ベニスに行ったことがなければ、やはり詳しいところはイメージの作りようがない。そんなときルキノ・ヴィスコンティ監督の「ベニスに死す」は、コレラに侵され、町のあちこちに消毒薬の匂いがたちこめるベニスの映像を鮮やかに伝えてくれる。そのようにして、映画はその映像で時には小説をはるかに越えた世界を現出するのである。

 しかしそのまた一方で、例えばトルストイの「アンナ・カレーニナ」の冒頭の一節「幸福な家庭はみな似通っているが、不幸な家庭は不幸の相もさまざまである。」は、映画がどのように頑張ってみてもどうしても映像化することはできない。これだけ簡潔に語られた真実を映画的に語るには、一体何時間分の映像が必要であろうかと考えると気の遠くなる思いがするほどだ。あるいは堀辰雄の「聖家族」の冒頭「死があたかも一つの季節を開いたかのようだった。」これを映画的に語るにはおそらく森田の天才をもってしても無理だろう。言葉のちからというものを、ここではいやというほど感じさせられる。

 似たもの同士の映画と小説だが、結局、その魅力の多くは映画は映像に、小説は言葉に負っているということになるだろう。言葉か映像かという単純な問題ではないにしても、ぼくは、映像にもたれかからない言葉を小説に、そして言葉にもたれかからない映像を映画に、それぞれ期待しているのである。