私説・日本映画小史 9

古風と現代風の志村喬


 映画がサイレントからトーキーになって、セリフをいいながらの演技となれば、美男美女でない自分のような俳優にも出番があるのではなかろうか。売れない劇団に属していた志村喬はそう考えて、一九三四年、新興キネマの太秦撮影所に入社した。関西大学の学生演劇出身で、もう二九歳になっていた。

 三六年、『赤西蛎太』(伊丹万作監督)で、人のいい侍を演じた。迷い猫をむげにも捨てられず、そっと他人におしつけようと、猫をぶらさげ廊下をうろつきまわる。見とがめられると、間の悪そうなごまかし笑い。たくまない、自然なユーモア。

 もちろん志村は「たくんだ」のである。しゃしゃり出ず、ひかえめ、時代劇でありながらいまの日常生活を思わせる表現。その奥には、学生時代から外国戯曲を上演して鍛えてきた感覚と演技力、そして、つねに工夫をこらす、たえまない努力が隠れていた。

 京都ではつぎつぎと声のかかる役者になった。三九年の『春秋一刀流』、罠にかかって殺される浪人。小さな夢さえ実現できず死んでゆく若い浪人たちは、そのまま日中戦争さなかの当時の若者たちだった。

 四一年、東京から声がかかった。志村自身そのシナリオをいくつか読んで感心していた黒澤明という若者が、はじめて監督する作品だった。『姿三四郎』。

 初老の警視庁柔術師範。それが、若い柔道家から溌剌とした挑戦を受け、生活に張りをとりもどす。全力で戦い、敗れてなお爽やかな威厳を失わない。めりはりの必要な芝居を、志村は流れるように演じ分けた。試合のはじまり、「参ろう」といって組み合う、そのセリフのいいかたに、古色があり、しかも現代ふうの洒落た新鮮味があった。

 優れた感性を知性が静かに抑えこむ演技。『お吟さま』(八〇年 熊井啓監督)で演じた千利休は、その到達点を示す。二年後、没。