私説・日本映画小史 8

若々しい情熱の稲垣監督


 昭和ひとけたも終わりのころ、三十歳になるかならぬかの映画人たちが、京都の鳴滝村付近に移り住んで、いつも映画の話ばかり。やがてシナリオの合作をはじめた。その場にいないと、とんでもない登場人物のモデルにされる。

 『丹下左膳餘話・百萬両の壷』の柳生源三郎──新婚の奥方の目をぬすんでは矢場の娘に入れあげる若侍は、自分がモデルだったと、監督の稲垣浩は後年みずから認めている。彼は映画への若々しい情熱を、一九八〇年に七四歳で亡くなるまで失わなかった。

 『瞼の母』(三一年)のラスト・シーン。「五歳で生き別れた母親は、目をとじれば俺の瞼の奥にいる」と、泣きながら意地を張る忠太郎のうしろに、気がつけば、舞い落ちる雪あかりのなか、当の母親が同じく泣き濡れて立っている。余分なものを加えない演出。そしてドラマにぴったりの情景。

 四一年、『江戸最後の日』の勝海舟は日本という国のために、江戸城を静かにあけわたし、官軍の総攻撃をやめさせねばならぬ。城門がゆっくり開き、海舟が思いつめた足どりは重いが、門が大きかったからこそ、海舟の悲痛はスケールが膨らんだ。

 俳優をはじめ、現場の職人たち。その多くの個性を、監督はまとめるのではない、それぞれに生かすのだと、稲垣はいう。そうした作風は、撮影に宮川一夫を得て、四三年の『無法松の一生』(脚本 伊丹万作)でひとつの頂点に達した。

 無法者の人力車夫・松五郎が、ながの歳月、軍人の未亡人に寄せる秘かな思い。それは、人力車の車輪がくるくる廻って織りあげる万華鏡のような映像であり、激しいリズムをきざむ祇園太鼓の質実な響きだった。松五郎の家の壁には、そのひとに似た女性のポスターが、古びてもなお、風にひらひら、いつまでも切なく揺れていた。