私説・日本映画小史 5

紙風船とともに去りぬ


 一九三二年、弱冠二二才の山中貞雄は、監督第一作『抱き寝の長脇差』、第二作『小判しぐれ』と、たてつづけにサイレントの秀作を発表、流れるようなリズムと抒情性で、「山中時代」とよばれる一時期をひらいた。

 わかりやすく洗練された言葉づかい、効果的な小道具。「此処は」「何処じやと」「馬子衆に問へば」「此処は信州」「中仙道」と重なる字幕タイトルのあいまに、野の景色、山の景色、三度笠が挿み込まれる。軽快で情の濃やかな描写は、トーキーにこそ向いていたといえよう。

 三五年『百万両の壷』。丹下左膳と櫛巻きお藤が夫婦喧嘩。みなしごの安吉が寺子屋でいじめられぬかと、「そんなに心配なら、あんた、行きなさいよ」、「おれは行かねえよ、おまえ、行け」。場面かわって、結局左膳は恐妻家、いじめられている安吉の横あいからひょいと現われ、「こらっ」、いじめっ子のおでこをぴんとはたいて、そそくさと逃げかえる。時代劇に、いま生きている人間がそのままに描かれる新鮮さ。

 山中貞雄は、映画とともに育った最初の映画人、映画が生み、映画が育てた新世代の監督だった。彼が生まれた一九〇九年に、日本映画の父・牧野省三ははじめて尾上松之助で『碁盤忠信』をつくった。その息子マキノ正博のつてで、大正から昭和に移った二七年、映画界入り。

 だが三七年七月、日中戦争がはじまり、八月には召集がきた。手がふるえ、たばこのマッチも擦れなかった。『人情紙風船』を撮り終えたばかり。

 貧乏長屋、浪人が生きるすべを失い、じっと座っている。手内職の紙風船が散らかり、その一つが、折りからの初夏の風に、すうっと畳のうえをころがり、すべっていく。浪人は身じろぎもしない。うつろな心に、いとおしい生が浮かび上がる。

 遺作になった。翌年九月、中国大陸で戦病死。二八歳と十か月だった。