私説・日本映画小史 4

エノケンと山本嘉次郎


 一九二三年の関東大震災で演芸館や撮影所が崩壊し、食べるために東京を離れた関係者は多い。浅草のコーラスボーイ榎本健一と映画監督に志のあった山本嘉次郎が出会い音楽映画の夢を語りあったのも、そうした放浪さきの関西だった。

 榎本は、二九年、浅草の舞台にもどり、たちまちレヴューのトップに立った。ヴァイオリンを習い、オペラで鍛えられていたので、楽譜からすぐ正確な音程で歌えたし、自分なりの味つけもまた音楽のセンスを感じさせた。右手を上に伸ばし左手を胸にあて、前のめりに丸太のようにぶっ倒れても、鼻先をぶつけないほど手の力が強く、体の動きが敏捷だった。「エノケン」の声も体も、どの表情も愛敬にあふれている。

 三四年、P・C・L(のちの東宝)から映画出演の交渉があり、エノケンは音楽映画で、日活の京都撮影所にいる山本が監督なら、と条件をつけた。こうして山本のいう「シネ・オペレッタ」がぞくぞくと誕生する。日本最初の充実したミュージカル群。

 三六年『ちゃっきり金太』。幕末の騒然とした江戸、中村座ではレヴュー(!)の真っ最中だが、西国の田舎侍たちが、客はおしのける、馬は乗り入れる、カネさえ払えばいいだろうの横紙やぶり。ところが侍たち、知らぬまにみんな、ふところの財布をスラれている。「金太のしわざだ」。スピーディな展開、土間いっぱいの観衆をめりはりつけて一糸みだれず動かす演出。

 エノケンの自由奔放な芝居は、ドラマを正確に理解し、緻密に計算したうえでのことだったから、山本の背骨のとおった演出があって、いっそう生き生きする。

 山本の愛弟子、黒澤明と組んだ『虎の尾を踏む男たち』(四五年)は、春の宵に優しい狐にたぶらかされたような、うっとり見惚れる一場の夢としか、いいようがない。