私説・日本映画小史 3

“七つの顔”の片岡千恵藏


 片岡千恵蔵は、日本最初の映画スター尾上松之助が死んだ翌年、一九二七年に本格的な映画界入りをはたした。気は優しくて、いい男──眉目清秀、肝がつぶれたと、初対面の印象をシナリオライターの比佐芳武が書いている。どこか、赤ん坊がそのまま大きくなったようなきかぬ気のふうもある。実際、つぎの年には二五歳で自分のプロダクションをつくり、伊藤大輔監督の示唆で「明朗時代劇」を看板に掲げた。当時、個人の内面や社会の暗部をひねって突いた時代劇が多かったから、これは新鮮だったろう。

 三六年、二・二六事件から四か月も経っていない『赤西蛎太』でも、伊達藩のお家騒動を物語の縦糸に、気は優しくて、ただしお世辞にもハンサムとは申せぬ青年の、自由で明るい精神とほほえましい恋が描かれる。青年の視線のさきで、庭の池のみなもが春の光にきらきらと波たち、彼は照れくさそうに恋人を「さざなみ」と名づけるのである。娯楽映画であっても作品のエスプリは「高雅」でなけらばならぬと主張した伊丹万作の脚本・監督。

 千恵蔵は歌舞伎の出身で、芝居っ気が抜けきらず、さほど器用な俳優ではなかったが、その狭い演技の幅のなかで、私たちに愛されるさまざまな人物を演じ分けた。桜吹雪の遠山金四郎、七つの顔をもった多羅尾伴内、大石内藏助に宮本武蔵。凡百のスターとちがい彼はシナリオが読めたと、若いときの盟友・稲垣浩は後になって語っている。

 戦後は内田吐夢の作品などで重厚さを増し、文字どおり映画界の重鎮となった。スターはたしかに人目をひく商品だが、映画は必ずしも利益追求だけの商売ではないことを、千恵蔵は最初に実践した大スターだった。彼をとりまく映画人たちの名前が、それを示していよう。