谷崎潤一郎『細雪』を読む

 

中巻

 

 



★谷崎潤一郎『細雪』を読む 2017.1.4
今日は、「中巻」一(271p)まで。

幸子は妙子が人形製作の餘暇に洋裁の稽古をしていることは聞いていたけれども、今奥畑が云ったようなことは全く初耳なのであった。
「そうですねん。───僕こいさんのしやはることに干渉する権利あらしませんけど、せっかくこいさんが自分の力であれだけのものにしやはって、世間でもこいさん独得の藝術として認めるようになった仕事を、今ここで止めてしまやはるいうことはどうですやろうか。それもただ止めるいうだけやったら分ってますけど、洋裁をするいうのんが、分りませんねん。何でもその理由の一つとして、人形やったら何ぼ上手に作ったかて、ほん一時の流行に過ぎん、じきに世間から飽かれてしもて、今に買うてくれる人もないようになる、洋裁やったら実用的なものやさかい、いつになっても需要が衰えん云やはりますねんけど、何でええとこのお嬢さんが、そんなことしてお金儲けんならんのですやろか。もうじき結婚しやはる人が、自活の方法講じんかてええやありませんか。僕が何ぼ甲斐性なしでも、まさかこいさんにお金の不自由さすようなことせえしませんよってに、職業婦人みたいなことはせんとおいてほしいんです。そら、こいさんは手先の器用な人ですさかい、何か仕事をせずにはおれんいう気持は分りますけど、お金儲けが目的でのうて、趣味としてやるいうのんやったら、仮にも藝術と名の付くものの方が、どのくらい品もええし、人聞きもええか。人形の製作なら、ええとこのお嬢さんや奥さんの餘技として、誰に聞かれたかて恥かしいことあれしませんけど、洋裁は止めてほしいんですねん。恐らくこれは僕ばかりやない、本家やこちらでもきっと僕と同意見に違いない、僕請け合うとくさかいに相談してみなされ云うてましてんけど、………」〈268P〉

▼奥畑というのは、妙子の彼氏。船場の旧家のぼんぼんである。ここで奥畑がしゃべることばが、「船場言葉」と言われるものだろう。Wikiの「細雪」の項を見ると、「全編の会話が船場言葉で書かれている」とあるが、それは間違い。東京弁をあやつる大阪の奥様とか、いろいろ出てくるわけだが、ここはまさしく生粋の「船場言葉」なのだろう。ちなみに、谷崎は、東京は日本橋の生まれ。
▼この奥畑の職業観、女性観は、当時のいわゆる上流階級の男の平均的なものだろうか。
▼ことしも「細雪」読書。そろそろと参ろう。


★谷崎潤一郎『細雪』を読む 2017.1.5
今日は、「中巻」二(281p)まで。

悦子は学校から帰って来ると、毎年お花見の時よりほかにはめったに着ることのない和服をて、足に合わない大ぶりの足袋を穿いて、観世水に四君子(しくんし)の花丸の模様のある山村流の扇をかざして、

弥生は御室(おむろ)の花ざかり
三味太鼓ではやす幕の内
互いに見合わす顔と顔

といったような文句で始まる「十日戎(とおかえびす)」の替え唄の舞を教わるのであったが、日の長い時分のことなので、悦子が済んで妙子が「雪」を舞う頃になっても、庭はまだ明る<、平戸の花の遅咲きの分がぱっと燃えるように芝生の青に照り映えていた。〈280p〉
▼「観世水」も「四君子の花丸」も、今では分かるぞ。でも「十日戎」の唄とか、「雪」の舞とかは、よくわからないのが悔しい。
▼「平戸の花」というのが、これまでも何度も出てくるのだが、何の花なのかよく分からなかった。で、FBグループ「みちくさ部」に質問すると、「平戸ツツジ」だと判明。これでイメージが鮮明になった。分からないことは、とことん調べたいものだ。
▼ちなみに、サイデンステッカーは、この「平戸の花」を、「Hirado lilies」と訳していると知人が教えてくれた。「Lily」はユリとは限らないが、ユリに似た花、程度だから、「ツツジ=Azalea」とは明らかに違う。きっと誤訳だろうということになった。翻訳はむずかしいなあ。

 

★谷崎潤一郎『細雪』を読む 2017.1.6
今日は、「中巻」三(294p)まで。

「雪」の衣裳の着附がすっかり出来上ったところで、転(こ)けないように右手で床柱に掴(つか)まりながら、立ったままでお春に足袋を穿かせて貰っていた妙子は、潰し島田の首は動かさずに、宙に据えていた眼だけをちらとそちらへ向けた。悦子はいつも洋服を着ているこの若い叔母が、用意のために十日ほど前から日本髪に結って和服を着出したのを知ってはいたものの、さすがに今日の変り方には呆気に取られたように眼を見張った。妙子が着ている衣裳というのは、実は本家の姉の鶴子が昔婚礼の時に用いた三枚襲ねの一番下の一と襲ねなのである。妙子は、今日のはお浚(さら)いといっても小人数の集りであるし、それでなくてもそういうことは差控えるべき時局下であるから、新しく衣類を調えるまでもないと考えて、幸子と相談した結果、本家の姉のこの衣裳がまだ上本町の蔵に置いてあることを思い出して、それを借りることにしたのであったが、父が全盛時代に染めさせたこの一と揃いは、三人の画家に下絵を画かせた日本三景の三枚襲ねで、一番上は黒地に厳島、二枚目は紅地に松島、三枚目は白地に天の橋立が描いてあるのであった。今から十六七年前の大正の末年頃、姉が結婚した時に一度手を通しただけの衣裳であるから、ほとんど新しい物と同じようにしゃんとしているのであるが、故金森観陽(かなもりかんよう)の筆に成る橋立の景色の一と襲ねに、黒繻子の帯を締めた妙子は、化粧の加減か、いつものような娘らしさがなくなって、大柄な、立派に成育し切った婦人に見え、そういう純日本式のつくりをすると、顔が一層幸子に似て来て、ふっくらと頬のふくらんだところに、洋装の時には見られない貫禄が添わっていた。〈282p〉
▼まるで日本画を見るかのような描写。それにしても、この「三枚襲ね」の豪華さ。全盛を誇った大阪商人の心意気といったところだろうか。
▼金森観陽という画家のことはまったく知らなかった。

八畳の間では、幸子と、悦子と、板倉写真師とが、椅子に腰かけた妙子を取り巻いて坐りながら、ここでも四人がちらし鮨を食べていた。妙子は衣裳を汚さないように膝の上にナフキンをひろげて、分厚い唇の肉を一層分厚くさせつつ口をOの字に開けて、飯のかたまりを少しずつ口腔へ送り込みながら、お春に茶欽み茶碗を持たせて、一と口食べてはお茶を啜っているのであった。〈287p〉
▼「雪」の舞の衣裳の着付けを終わった妙子は、お腹がすいたといって、ちらし鮨を食べる。その食べ方の描写。なんでそんな食べ方をするのかと聞かれて、妙子はこう答える。

「そんでも、こないして食べるもんやいうこと、教(お)せてもろてん」
「誰に」
「おッ師匠はんとこへ来る藝者の人に。───藝者が京紅着けたら、唇を唾液で濡らさんようにいつも気イ付けてるねんて。もの食べる時かて、唇に触らんように箸で口の真ん中へ持って行かんならんよってに、舞妓の時分から高野豆腐で食べ方の稽古するねん。何でかいうたら、高野豆腐は一番汁気を吸うよってに、あれで稽古して、口紅落さんようになったらええねん」〈289p〉

▼なるほどねえ。人にはそれぞれ苦労があるもんや。ハンバーガーなんて食べられないよね。

 

★谷崎潤一郎『細雪』を読む 2017.1.7
今日は、「中巻」五(313p)まで。

▼有名な大洪水のところに来た。優美な舞の会から一ヶ月後の7月5日のこと。阪神間に記録的な雨が降り、大水害となった。昭和13年7月3日から5日にかけて、実際に起きた大災害である。死者・行方不明者715人。
▼何かの資料があったのだろうか、実にリアルに、克明に描かれている。以前読んだときも、大水害の記述があったことは覚えていたが、こんなにすごいとは思わなかった。四、五でも足りず、まだ続く。

 

★谷崎潤一郎『細雪』を読む 2017.1.8
今日は、「中巻」八(343p)まで。

妙子はあの日公開の席で始めて「雪」を舞ったのであるが、そのわりにはなかなか上手に舞った。幸子がそう感じたばかりでなく、おさく師匠も褒めてくれたくらいで、それはもちろん師匠が毎日遠い所を出向いて来てくれた丹精のお蔭には違いないけれども一つには子供の時分に舞を習った経験があるのと、生れつき筋がよいせいなのではあるまいかと、そういっては身贔屓になるかも知れないが、幸子には思えたのであった。何事によらず感激するとじきに涙が出る彼女は、あの日も妙子の舞うのを見ながらこんなにもこいさんが上達したのかと、涙が出て仕方がなかったが、その時の感激が今またこの写真に対して湧き上って来るのであった。彼女は四枚ある舞姿の中で、「心も遠き夜半の鐘」のあとの合の手のところ、───傘を開いたままうしろに置き、中腰に両膝を衝いて、上体を斜め左の方に浮かせ、両袖を合わせ小首をかしげて、遠く雪空に消えて行く鐘の音に聴き入っているところ、───を撮ったものが一番好きであった。稽古の時にも、妙子が師匠の口三味線に載ってこの恰好をするのをたびたび見、ここのところが最も気に入っていたのであるが、あの当日には、衣裳や髪かたちのせいもあって、稽古の時よりはまた数倍立ち勝って見えた。幸子は、どういうわけでここのところがそんなに好きなのだか自分にもよく分らないのだけれども、恐らくそれは、いつものハイカラな妙子には全然見られないしおらしいものが、この恰好の中に出てるからであるかも知れない。彼女は妙子というものを、自分たち姉妹の中では一人だけ毛色の変った、活?で進取的で、何でも思うことを傍若無人にやってのける近代娘であるという風に見、時には憎らしくさえなることがあるのだけれども、この舞姿を見ていると、やはり妙子にも昔の日本娘らしいしとやかさがあることが分って、今までとは違った意味で可愛らしくもいとおしくもなって来るのである。そして、結いつけない髪に結い、旧式な化粧を施しているせいで常とは変って見える顔つきに、持ち前の若々しさや溌剌さが消えていて、実際の年齢にふさわしい年増美といったようなものが現れているのにも、一種の好感が持てるのであった。が、今から思うとちょうど一箇月前に、あの妹がこんな殊勝な恰好をしてこんな写真を撮ったということが、何だか偶然ではないような、不吉な豫感もするのであった。そういえばあの日、貞之助と幸子と悦子とが妙子を中央に取り囲んで写したのもあったが、事によるとあれが恐ろしい記念の写真になるのではあるまいか。幸子はあの時、姉の婚礼の衣裳を着けた妹の姿に、何ということもなく感傷的にさせられて、泣きそうになって困ったことを覚えているが、この妹がいつかはこういう装いを凝らして嫁に行く光景を見たいと願っていたことも空しくなって、この写真の姿が最後の盛装になったのであろうか。〈329p〉
▼大水害に巻き込まれ、安否のわからない妹妙子のことを姉の幸子が思いやっている場面。えんえんと続く息の長い文章は、未曾有の災害の中での人間の心の動きを正確に辿っているように思える。「写真を撮る」行為は、一種の「予感」を伴うものだということが、そういえば昔はそんな感じだったという感慨とともに思い出される。

 

★谷崎潤一郎『細雪』を読む 2017.1.9
今日は「中巻」九(348p)まで。

 

★谷崎潤一郎『細雪』を読む 2017.1.10
今日は、「中巻」十一(359p)まで。

ついシュトルッ家の裏庭の方で、子供たちの声がしているのでお春が呼びに行こうとするのを、雪子は止めて、ひとりテラスの葭簀(よしず)張りの下へ出て、白樺の椅子に掛けた。
 さっきここへ来る途々(みちみち)、自動車の窓からちらと見ただけでも、業平橋附近の惨状が想像以上であったのに彼女は驚いたのであったが、こうしてここを眺めた感じは昔の通りで、一木一草も損われてはいない。ちょうど夕凪の時刻なので風がばったり死んでいるのが、暑いことは暑いけれども、静止している樹々の色合いがひとしお鮮かで、芝生の緑が眼に沁み入るようである。この春彼女が東京へ立って行った頃にはライラックと小手毬が満開で、さつまうつぎや八重山吹はまだ咲いていなかったが、今はもう霧島や平戸も散ってしまい、わずかに咲き残った梔子(くちなし)の花が一つ二つ匂っているばかり。シュトルツ家との境界にある栴檀と青桐の葉はおびただしく繁って、その二階建ての洋館を半ば蔽い隠していた。〈351p〉

▼大水害のとき、雪子は東京の本家にいたのだが、心配して(これを口実に戻りたくて)蘆屋の家に帰ってくる。そのときの描写。さまざまな植物の名前が、列挙されるが、それぞれが愛情込めて描かれている。シュトルツ家というのは、幸子の蘆屋の家の隣家で、ドイツ人一家。そこの子どもが、「青桐(アオギリ)」を何度教えても「アオギリギリ」と言ってしまうというようなことまで丁寧に描き込まれていてほほえましい。それが大災害の直後のことなので、いっそう、心に沁みて感じられる。「霧島や平戸」というのは、「霧島ツツジや平戸ツツジ」だと今は自信たっぷりに言える。
▼栄光学園の副校長だったシュトルテ神父は、ここに出てくる「シュトルツ」と同じスペリングだったのだろうか。懐かしい名前(名字)である。

幸子を始め三人の姉妹たちは、西洋間の方を子供たちの遊び場所に明け渡して、昼間は大概食堂の西隣の、六畳の日本間へ来てごろごろしていた。そこは廊下を挟んで風呂場と向い合っているので、着物を脱いだり洗濯物を束ねておいたりする場所に使われていて、南側が庭に面してはいるけれども、庇が深くて薄暗い行燈部屋のような所なのであるが、日が遠いのと、西側の壁に低い掃き出し窓が開いているのとで、日中でも冷え冷えとした風が通り、家じゅうで一番涼しい部屋とされているので、三人は争ってその窓の前へ寄り集って、畳に臥そべるようにしながら最も暑い午後の二三時間を過した。〈355p〉
▼当時は冷房などなかったわけだから、なるほど、こういう「避暑」の方法もあったのだ。今の狭苦しい住宅の作りでは、こうした光景すら一種の「憧れ」をもってイメージされる。「掃き出し窓」から流れ込む、ちょっとしめって、草の匂いのするような風が肌に感じられるような描写である。そこに「ごろごろしている」三人の美人姉妹の話も、なんとなく想像される。


★谷崎潤一郎『細雪』を読む 2017.1.11
今日は、「中巻」十三(371p)まで。

幸子はそう聞くと、もう一度妙子に附き合って貰ってその明くる日に見舞いに行ったが、それから五六日過ぎて逝去の通知が来た。その時始めて、二人は悔みを述べるために亡くなった師匠の家を訪れる機会を持ったのであるが、これが大阪で由緒正しい山村流の伝統を伝えていた唯一の人、昔南地(なんち)の九郎右衛門町(くろえもんちょう)に住んでいたので九山村と云われた家柄の、二代目を受け継いだ師匠の住居であろうかと驚かれるような、そう云っても佗びしい長屋のような家であった。これでは落魄と云ってもよいような細々とした暮しをしていたとしか思われなかったが、それというのも、故人が藝術的良心に忠実で、昔からの舞の型を崩すことを極端に嫌い、時代に順応することをしなかった、一と口に云えば世渡りの下手な人だったからであろうか。聞けば初代の鷺さくさんはかつて南地の演舞場の師匠をしてい、あしべ踊の振付をしていた人なので、初代が死んだ時に二代目のおさくさんにも廓の師匠となってくれるように話があったのだそうであるが、故人は真っ平御免だと云って断った。というのは、当時は藤間や若柳の派手な踊が全盛の頃で、廓附きの師匠になれば自然廓の役員からさまざまの干渉を受け、当世風に舞の手振りを改変することを餘儀なくされる、それが故人は厭だったからだそうであるが、故人のそういう狷介(けんかい)な性質が、処世的には大いに禍いしたのであろう。〈362p〉
▼妙子の舞の師匠、おさく師匠の死を描く部分。この前調べたところ、山村流というのは上方四流の一つ。その二代目が、こんなに恵まれない暮らしをしていたとは、と幸子も驚くのである。
▼「あしべ踊」というのは、「大阪市南地五花街の芸妓が総出で演じた舞踊。1888年(明治21)に始まり,現在は4月1日から10日間、大阪踊として道頓堀中座で行われる。」とのこと。春の季語ともなっている。知らなかった。「藤間流」「若柳流」なども調べてみたが面白い。日本舞踊にはまったく暗いので、新鮮だ。


★谷崎潤一郎『細雪』を読む 2017.1.12
今日は、「中巻」十四(380p)まで。

しかし正直なことを云うと、彼女はそんなに東京が好きなのではなかった。瑞雲(ずいうん)棚引く千代田城のめでたさは申すも畏(かしこ)いこととして、東京の魅力はどこにあるかといえば、そのお城の松を中心にした丸の内一帯、江戸時代の築城の規模がそのまま壮麗なビル街を前景の裡に抱え込んでる雄大な眺め、見附やお濠端の翠色、等々に尽きる。まことに、こればかりは京都にも大阪にもないもので、幾度見ても飽きないけれども、ほかにはそんなに惹き着けられるものはないと云ってよい。銀座から日本橋界隈の街通りは、立派といえば立派だけれども、何か空気がカサカサ乾枯らびているようで、彼女などには住みよい土地とは思えなかった。分けても彼女は東京の場末の街の殺風景なのが嫌いであったが、今日も青山の通りを渋谷の方へ進んで行くに従い、夏のタ暮であるにもかかわらず、何となく寒々としたものが感じられ、遠い遠い見知らぬ国へ来てしまったような心地がした。彼女は前に東京のこのあたりを通ったことがあったかどうか覚えていないが、眼前に見る街の様子は、京都や大阪や神戸などとは全く違った、東京よりもまだ北の方の、北海道とか満州とかの新開地へでも来たような気がする。場末といってもこの辺はもう大東京の一部であり、渋谷駅から道玄坂に至る両側には、相当な店舗が並んでいて、繁華な一区域を形作っているのであるが、それでいて、どこかしっとりした潤いに缺(か)けてい、道行く人の顔つき一つでも変に冷たく白ッちゃけているように見えるのは何故であろうか。幸子は自分の住んでいる蘆屋あたりの空の色や土の色の朗らかさ、空気の肌触りの和やかさを想い浮かべた。これが京都の市中などであると、たまたま始めての街筋へ出ても、前から知っていた街のような親しみを覚え、ついその辺の人に話しかけてみたくもなるのに、東京というところは、いつ来てみても自分には縁もゆかりもない、餘所々々(よそよそ)しい土地なのである。〈377p〉
▼大阪に育った幸子の印象としては、もっともな感想なのだろうが、東京生まれの谷崎自身の感じ方も、これに近かったのだろうか。東京は北国だというような言葉を以前どこかで読んだか聞いたかしたが、やはり大阪や京都に生まれ育った人からすると、こういう感じはいまだにあるのかもしれない。それでも、横浜にくらべれば、東京にはまだ歴史の厚みがそこそこに感じられるのだが。


★谷崎潤一郎『細雪』を読む 2017.1.13
今日は、「中巻」十六(393p)まで。

そして、ほんとうに、あの風がもう少し長く、もう少し強く吹いたならば、あの家は潰れたに違いなかった。なぜといって、幸子はさっき階段を駈け降りた時は、半分は自分の恐怖からそんな妄想を描いたのだと思ったのであるが、事実、風がごうッと吹き付けるたびに、この家の柱と壁の隙間が一二寸離れるのを、その六畳の部屋へ来てはっきり目撃したのであった。部屋には懐中電燈が一つ燈っていただけなので、その薄暗い明りで見ると、五寸か一尺ぐらいもの隙間が開くように感じられたが、正直に云って、一二寸というのは誇張でなかった。それが開いたきりになるのではなくて、風が止むと隙間が合わさり、吹き出すとまた開くのである。そして一回は一回と開きかたがひどくなるのである。幸子は丹後の峰山の地震の時に大阪の家が随分揺れたのを記憶しているが、地震の場合は瞬間的で、風のように時間が長くはないし、何にしても柱と壁が離れたり合わさったりするというようなことは始めてであった。〈390P〉
▼渋谷の鶴子の家は、安普請で、そこへ幸子が尋ねてきたときに台風がやってくる。その大風で家が吹き飛ばされそうになったので、隣家へ避難した。それにしても、柱と壁の間が、一二寸も開くなんて。大洪水に続く台風。いつの時代も日本は、自然災害の多い国である。


★谷崎潤一郎『細雪』を読む 2017.1.14
今日は、「中巻」十七(404p)まで。

と、お春から十時頃に電話がかかって、これからこちらの御寮人さんがお伺いしたいとおっしゃっていらっしゃいますのんで、私がお供して参ります、旦那様からお手紙が参っておりますのんで持って参りますが、ほかに何ぞ持って参りますものは? と云って来たので、持って来て貰うものはないけど、姉ちゃんにこっちでお昼の御飯食べるつもりで早ういらっしゃい云うてほしい、と、そう云って電話を切ったが、悦子はお春に預けることにして、姉と二人で久々にゆっくり食事をするにはどこがよかろう、と考えた末、姉は鰻が好きであったことを思い出した。ついては昔、父と一緒に蒟蒻島とかいう所の大黒屋という鰻屋へたびたび行ったことがあったので、今もその家があるかどうかを聞かしてみると、さあ、どうでございますやろ、小満津なら聞いておりますがと、女将が電話帳を繰ってくれたが、なるほど、大黒屋ございますわ、ということなので、部屋を申し込んでおいて貰い、姉を待ち受けて、悦ちゃんはお春どんと三越へでも行ってみなさい、と、云いおいて出かけた。
 姉は雪子がようようのことで梅子を賺(すか)して二階へ連れて上った隙に、大急ぎで身支度をして出て来たとやらで、きっと今頃は雪子ちゃんが難儀しているやろう、それでも出て来てしもうたからには今日はゆっくりさして貰う、と云いながら、
「ここは大阪に似てるなあ、東京にもこんなとこがあるのんかいな」
と、座敷の外を取り巻いている川の流れを見廻した。
「ほんに大阪みたいやろ。───娘の時分に東京へ来ると、いつもお父さんがここへ連れて来やはってん」
「蒟蒻島いうて、ここは島になってるのん?」
「さあ、どうやろか。───たしか前には、こんな川附きの座敷はなかったような気イするけど、場所はここに違いないわ。───」
 幸子もそう云って障子の外に眼を遣った。昔父と来た時分には、この河岸通りは片側町になっていたのに、今では川沿いの方にも家が建ち、大黒屋は道路を中に挟んで、向う側の母屋から、川附きの座敷の方へ料理を運ぶようになっているらしかったが、昔よりも今のこの座敷の眺めの方が、一層大阪の感じに近い。というのは、座敷は川が鍵の手に曲っている石崖の上に建っていて、その鍵の手の角のところへ、別にまた二筋の川が十の字を描くように集って来ているのが、障子の内にすわっていると、四つ橋辺の牡蠣船から見る景色を思い出させるのである。そしてここでも、その十文字の川から川へ、四つは架っていないけれども、三つは橋が架っていた。ただ惜しいことに、江戸時代からあるらしいこのあたりの下町も、震災前には大阪の長堀辺に似た、古い街に共通な落ち着きがあったものだけれども、今では人家も橋梁も鋪装道路も皆新しくなり、しかもそのわりに人通りが閑散で、何となく新開地の気分がするのであった。〈395p〉

▼ここに出てくる「蒟蒻島」は、今の隅田川、日本橋川、亀島川に囲まれた地域で、霊岸島とも呼ばれるあたりにあった場所。更に「蒟蒻島」については、wikiにはこうある。「亀島川沿岸部は埋立が十分でなかったため足場が悪く、蒟蒻島と俗称された。同地域には岡場所が形成され、所属する私娼は蒟蒻芸者と呼ばれた。(江戸時代後期)」
▼横浜に生まれ育ち、横浜を出て住んだことのないぼくは、東京のことですらあまりよく知らないから、「霊岸島」なんて聞いても、あ、あそこか、とピンとこない。もうちょっと詳しくなりたいものだ。この辺を、『細雪』片手に歩くというのも乙なものかもしれない。がっかりするだけだろうけど。
▼『源氏物語』の翻訳で知られるアーサー・ウェイリーは、日本に来たことがなかったけれど、その理由は「日本に幻滅したくないからだ」と言われているけれど、その気持ちもわかる。ただし、アーサー・ウェイリーはただ長旅が嫌いだけだったという関係者の証言があると、wikiにはある。どっちも本当のような気がするけどなあ。

 

★谷崎潤一郎『細雪』を読む 2017.1.15
今日は、「中巻」十九(420p)まで。

やがて、彼女は、歌舞伎座の方から橋を渡って河岸通りをこちらへ歩いて来る雪子の日傘が眼に留まると、徐(しず)かに座敷の中へはいって、自分の顔色を見るために、次の間の鏡台の前に坐った。そして紅の刷毛を取って二三度頬の上を撫でたが、ふと心づいて、傍にあった化粧鞄を、悦子に聞かれないように金具の音を立てずに開けて、ボッケット用のプランデーの罎(びん)を出すと、それを蓋のコップの中に三分の一ほど滴らして飲んだ。〈414p〉
▼幸子が女中まで連れて蘆屋の家を留守にしている間に、どうも、写真師の板倉が、大洪水のときに妙子を救って以来、妙子と付き合っているのではないかという手紙を、妙子の婚約者の奥畑からもらう。それですっかり動揺した幸子は、急いで蘆屋に帰ろうとするという筋なのだが、ここは、その手紙を読み終わり、動揺を隠せない幸子の様子を、短い文章で的確に表現している。見事なものだ。

 

★谷崎潤一郎『細雪』を読む 2017.1.16
今日は、「中巻」二十(430p)まで。

ここの庭は、秋よりは春の花を好む女主人の趣味を反映しているのか、わずかに築山の蔭に貧弱な芙蓉が咲いているのと、シュトルツ邸の境界寄りに、一叢(ひとむら)の白萩がしなだれているほかには、今は格別人眼を惹くような色どりもない。夏の間に思いきり葉を繁らした栴檀と青桐とが暑苦しそうな枝をひろげ、芝生が一面に濃い緑の毛氈(もうせん)を展(の)べている景色は、彼女が先日東京へ立って行った当時と大した変りはないのであるが、それでも幾分か日射しが弱くなり、仄(ほの)かながら爽涼の気が流れている中に、どこからか木犀の匂いが漂うて来たりして、さすがにこの辺にも秋の忍び寄ったことが感じられる。もうこのテラスに渡してある日覆いの葭簀張りも、近日取り除けなければならない。───彼女はそんなことを思いながら、いつも見馴れているわが家の庭を、この二三日はひどく懐しく眺めるのであった。ほんとうに、たまには旅行もしてみるものである。ほんの十日ばかり家を空けたに過ぎないけれども、旅馴れないせいか、何だか一と月も留守にしていたような気がして、久しぶりにわが家へ帰った喜びがしみじみと湧く。と、彼女はまたしても、雪子が滞在中、ともすればさも懐しそうに、───あるいは名残り惜しそうに、───この庭のあちらこちらにたたず(「行」の右側の字)むことがあるのを想い起した。こうしてみると、雪子ばかりではない。自分もやはり生粋の関西人であり、どんなに深く関西の風土に愛着しているかが分る。別に取り立てて風情もないつまらないこの庭だけれども、ここにたたずんで松の樹の多い空気の匂いを嗅ぎ、六甲方面の山々を望み、澄んだ空を仰ぐだけでも、阪神間ほど住み心地のよい和やかな土地はないように感じる。それにしてもあのざわざわした、埃っぽい、白ッちゃけた東京という所は何という厭な都会であろう。東京とこっちとでは風の肌触りからして違うと、雪子が口癖のように云うのももっともである。ああいう所に移転しないで済まされる自分は、姉や雪子に比べてどんなに幸福であるか知れない。───幸子はその感想に浸ることがこの上もなく楽しいのであったが、
「お春どん、あんたは日光見物までさしてもろて、ええことしたけど、あたしは東京という所(とこ)、ちょっともええことあれへんなんだ。やっばり自分の家が一番やわ」
と、お春を?まえて云ったりした。〈420p〉

▼ここにも、東京への嫌悪が語られる。それはそれとして、「旅へ出る」ことは、「家へ帰った喜びがしみじみ湧く」のを味わうためなのかもしれないと思う。ぼくはめったに旅をしないが、若い頃にちょっと長めの旅をしたとき、こうした「喜び」を感じたことを思い出す。
▼「栴檀(センダン)」は、暖かい地方(特に沖縄、九州、四国)、に自生する木のようで、関西には多かったのだろう。こっちではあまりなじみのない木だ。そういう所にも、土地柄というものは出るわけである。

 

★谷崎潤一郎『細雪』を読む 2017.1.17
今日は、「中巻」二十一(17p)まで。

そういえば幸子は、この独逸人の一家が隣へ引き移って来て以来、ことさら覗いて見るわけではなくとも、朝タニ階の縁側から庭の方を瞰(み)おろすたびに自然とその家の裏口が眼にはいるところから、夫人やアマの働きぶりだの台所の様子だのを、手に取るように知ってしまったのであるが、いつ見てもコック場の器物がきちんと整頓していることは驚くべきものであった。料理用のストーブと調理台とを中心にして、その周囲にアルマイトの湯沸しやフライパンなどが、大きいのから順々に、必ず一定の場所に置いてあり、それらがいずれも綺麗に研かれて武器のようにぴかぴかしていた。そして、洗濯、掃除、風呂の焚き付け、食事の支度等々の時間が毎日判で捺したように正確で、幸子の家の者たちは、隣家の人たちのしている仕事を見れば時計を見る必要がないほどであった。〈435p〉
▼ドイツ人のシュトルツ家では、先に日本を発った主人の後をおって、妻とその子どもたちも日本を離れることになり、悦子は友だちとの別れを惜しむのだった。幸子も、改めて隣家を様子を伺い、その几帳面さに感じ入る。さすがに、ドイツ人。国民性というものがあるのだろう。それにしても、調理器具がみがかれて、「武器のようにぴかぴかしていた。」という比喩は、戦争が近づいているご時世の反映なのだろうか、意外な比喩だ。

 

★谷崎潤一郎『細雪』を読む 2017.1.18
今日は、「中巻」二十三(459p)まで。

が、まあそんなような次第で、彼女と二人の妹たちの間柄は、ちょっと普通の姉妹の観念では律しがたいものであった。彼女はしばしば、貞之助のことや悦子のことよりも、雪子のことや妙子のことを心にかけている時間の方が多いのではないかと思って、自ら驚くことがあったが、正直に云って、この二人の妹は彼女にとって、悦子にも劣らぬ可愛い娘であったと同時に、無二の友人でもあったと云えよう。彼女は今度一人ぽっちになってみて、始めて自分が、友達らしい友達を持っていないこと、───形式的な交際以外には奥様同士の附合いというものをあまりしていないこと、───に心づいて、不思議に感じたのであるが、考えてみれば、それは二人の妹がいたためにその必要がなかったからであった。そうして今や、ローゼマリーを失った悦子と同じように、とみに彼女も寂寥を覚え出したのであった。
妻のしょんぼりしている様子を疾(と)うから看て取っていた貞之助は、十月の末に新聞の演劇欄を覗きながら、
「おい、来月は六代目が大阪へ来るで」
と、そう云って、五日目あたりに行こうではないか、今度は鏡獅子が出るそうだから、こいさんも来られないかしらん、などと云ったが、妙子は来月も上旬はことに忙しいから、自分は別の日に行くということだったので、その日夫婦は悦子を連れて三人で出かけた。幸子は九月に東京で見られなかった不満を充たし、かつは悦子にも菊五郎の所作事を見せてやりたいと思っていた願いを果たしたことであったが、その夜、鏡獅子の後の幕間に、彼女が廊下へ立って行って不意に涙を落したのを、悦子は気が付かなかったけれども貞之助が見咎めた。そして、何事にも感激性の強い妻ではあるが、それにしても変だと思ったので、
「どうしたんや、………」
と、そっと隅の方へ引っ張って行って尋ねると、またつづけざまにはらはらと落して、
「あんた、もう忘れてなさる?………あれは三月の今日やってんわ。あんなことがあれへなんだら、今月がちょうど十月(とつき)やのんに、………」
と、そう云って、膨らんで来る涙の玉を払うために指の先で睫毛を摘んだ。〈447p〉

▼ローゼマリーというのは、シュトルツ家の女の子で、悦子の大の仲良しだった。
▼ここは幸子にとっての二人の妹(雪子と妙子)がどんなに大切な存在であるかを語っているところだが、同性の兄弟姉妹というのはいいものだなあとつくづく思う。特に、仲の良い姉妹というのは、端で見ていても気持ちのいいものだ。
▼後半は、寂しくなった幸子が流産してしまったことの悲しみからまだ抜け出せない様子を描いて見事。夫の貞之助の優しさと繊細さにもびっくりする。何事にも鈍感なぼくなどは、ただただ感心するばかり。
▼涙が溢れる様の描写もいいなあ。


★谷崎潤一郎『細雪』を読む 2017.1.19
今日は、「中巻」二十四(470p)まで。

それには、幸子の眼から見て、妙子というものの外貌、───その人柄や、表情や、体のこなしや、言葉づかいや、───そういうものが、この春あたりからだんだん変って来つつあるように思えることも、そんな疑いを持たせる理由の一つになった。というのは、もともと妙子は四人の姉妹のうちで、一人だけ挙措進退がはっきりしていて、よく云えば近代的、と云えるところがあったのであるが、その傾向が近頃妙な工合に変貌して、不作法な柄の悪い言語動作をちらつかせるようになった。人に肌を見せることはかなり平気で、女中たちのいる所でも、帯ひろ裸の浴衣がけで扇風機にかかったり、湯から上って長屋のおかみさんのような恰好でいたりすることは珍しくない。すわるのにも横っ倒しにすわったり、ひどい時は胡坐(あぐら)を掻くような形をして前をはだけさせたりする。長幼の順序を守らないで、姉たちより先にものを食べたり、出はいりをしたり、上座に就いたりすることは始終なので、来客のある時、外出した時など、幸子はハラハラさせられることが多かった。今年の四月、南禅寺の瓢亭へ行った時にも、一番先に座敷へ通って雪子より上にすわってしまい、お膳が出ると誰よりも先に箸をつけたので、後で幸子は、こいさんと一緒にお料理屋へ行くのは御免やと、雪子に囁いたことがあったが、夏に北野劇場へ行った時にも、食堂で、雪子がお茶を入れて皆の前へ配っているのに、妙子は見ながら手伝おうとせず、黙ってそのお茶を飲んでいた。そんな風な行儀の悪さは、前からいくらかあったけれども、最近に至って特にはなはだしく眼につくようになった。〈460p〉
▼仲のよい姉妹だけれど、それぞれの性格や考え方の違いで、あわないところもある。この辺で描かれる妙子(こいさん)の変貌ぶりは、今ではもう当たり前のことだが、幸子には耐えられないことだったのだろう。ただ、妙子がこうなったのも、父親が彼女が幼い頃に死んで、家業の全盛時代の幸福を味わってないからだろうと、幸子はこの後で思いやる。幼いころの育ち方、思い出は、その人間の一生を通じて影響を与えるものなのかもしれない。
▼「帯ひろ裸」は「帯広裸」「帯代裸」で、「細帯を締めただけの、女のだらしのない姿。また、そのさま。細帯姿。」(デジタル大辞泉)とのことである。これも知らなかった言葉だ。


★谷崎潤一郎『細雪』を読む 2017.1.20
今日は、「中巻」二十六(484p)まで。

「まあ、そない云うけど、ああいう性格も特色があって面白いで。………」
「………それならそうと、早う打ち明けてくれたらええのんに、巧いこと人を欺してた思うたら、今度ばかりは腹が立って、………腹が立って、………」
 幸子は泣く時に腕白じみた童顔になるので、貞之助は真っ紅に上気して口惜し涙を浮かべている妻の顔に、いつもこんな表情をして姉妹喧嘩をしたであろう遠い昔の、幼い日の姿をなつかしく想いやった。〈484p〉

▼妙子が「身分違い」の写真師板倉と結婚すると言い張るのに、古い考え方の幸子はどうしても同意できなくて腹を立てる。それを夫の貞之助は、こんなふうに眺めるのだ。「妻」をこんなふうに「眺める」夫って、そんなにいないんじゃないかなあ。

 

★谷崎潤一郎『細雪』を読む 2017.1.21
今日は、「中巻」二十八(500p)まで。

妙子の「雪」は去年も一度出しているので、することにソツはなかったが、何分あれ以来稽古を怠っていて、今度の出演が決定してから急に一箇月ほど練習しただけであり、それに、今までは郷土会といっても神杉邸の日本座敷の置き舞台か、蘆屋の家の洋間で舞ったぐらいなことで、こういう本式の観客席を前にした舞台で舞うのは始めてなので、何となく幅の足りない、周りに空間が有り過ぎるといった感じがするのはぜひもなかった。当人もかねてそれを懸念したらしく、地方(じかた)で舞を引き立てるように、今日は特に幸子の琴の師匠である菊岡検校の娘を煩わして、三味線に出て貰ったのであったが、それでも決して上ったり気怯(きおく)れがしたりするのではなかった。貞之助が見ていると、持ち前の落ち着きを失わないで、どこまでも悠々と舞っている態度が、とても一箇月やそこらの練習で、始めてこういう晴れがましい舞台に立った人のようではない。それが、一般の観客はどうか分らないが、貞之助には、いかにも人を食った、褒められようが腐(くさ)されようが構わないといった風な、度胸で舞っている感じがして、小面(こづら)憎くさえ思えるのであったが、でも考えれば、彼女は今年二十九という大年増(おおどしま)で、もう藝者ならば老妓と云ってもよい年頃だとすると、そのくらいな度胸があっても不思議はないわけであった。そういえば彼は、去年の舞の会の時にも、平素は十以上も若く見える妙子が、その日に限って年増の地金(じがね)を露(あら)わしているように感じたのであるが、こうしてみると、日本のこういう徳川時代的服装は、大体に女を老けさせるのであろうか。それともこれは妙子に限ったことなので、一つには平素の?剌とした洋装に対照される古典的服装のせいでもあるが、一つには彼女が舞の時に示す舞台度胸のせいでもあろうか。………〈493p〉
▼「何となく幅の足りない、周りに空間が有り過ぎるといった感じ」かあ。何となく、分かる気がする。そういうふうに見れば舞も面白いのかもしれない。
▼それにしても、「今年二十九という大年増」というのは、びっくりする。考えてみれば、80年近くも前の話なのだ。世の中変わって当然だが。
▼これでだいたい、全体の半分ぐらいを読んだことになる。

 

★谷崎潤一郎『細雪』を読む 2017.1.22
今日は、「中巻」二十九(507p)まで。

妙子は相変らず忙しそうで、家で暮す時よりは外で暮す時間の方が多く、三日に一度は夕飯の食卓に顔を見せないことがあったが、彼女は多分、家にいると幸子や雪子に口説かれるのがうるさいので、それを避けている気味もあるのではないかと、貞之助は察した。それにしても、今度ばかりは妙子と二人の姉との間に感情の疎隔が生じはしまいか、ことに雪子との間がどうであろうかと、内々貞之助は案じていたが、或る日、夕方帰宅した彼は、幸子が見えなかったので、捜すつもりで浴室の前の六畳の部屋の襖を開けると、雪子が縁側に立て膝をして、妙子に足の爪を剪って貰っていた。
「幸子は」
と云うと、
「中姉(なかあん)ちゃん桑山さんまで行かはりました。もうすぐ帰らはりますやろ」
と、妙子が云う暇に、雪子はそっと足の甲を裾の中に入れて居ずまいを直した。貞之助は、そこらに散らばっているキラキラ光る爪の屑を、妙子がスカートの膝をつきながら一つ一つ掌の中に拾い集めている有様をちらと見ただけで、また襖を締めたが、その一瞬間の、姉と妹の美しい情景が長く印象に残っていた。そして、この姉妹たちは、意見の相違は相違としてめったに仲違いなどはしないのだということを、改めて教えられたような気がした。〈501p〉

▼ほんとに美しい場面。ちらっと貞之助に見えた雪子の「足の甲」のイメージは鮮烈。映画でこれを表現しようとしてもできないだろう。小説の素晴らしさは、こういうところにある。


★谷崎潤一郎『細雪』を読む 2017.1.23
今日は、「中巻」三十二(534p)まで。

昨夜ほんとうの一人ぼっちで浜屋の二階に眠った幸子は、旅の空とはいえいかにも心細い気がして、夜じゅう寝られないでしまったので、これが五六日も続く佗びしさを考えていたのであったが、その晩はまたゆくりなくも十畳の座敷に妙子と二人、何年ぶりかで姉妹が枕を並べて横になった。思えば、船場時代から娘盛りの年頃になるまで、彼女たちは何年となく一つ部屋に起き臥ししたもので、その習慣は幸子が貞之助と結婚するつい前の晩まで続いたのであった。もっとも、ずうっと昔のことは知らず、彼女が女学校の時分から、上の姉だけは別の部屋に寝て、幸子以下の三人が二階の六畳に寝ることになっていたので、妙子と二人きりのことはめったになく、大概二人の間に雪子が挟まり、どうかすると、部屋が狭いので二つの寝床に三人が寝たりしたこともあった。そして、雪子は寝像(ねぞう)のよい娘で、暑い晩でもきちんと掻巻(かいまき)を胸のあたりまで掛け、少しも寝姿を崩さずに眠るのが常であったが、幸子は今もこうしていると、あの頃の光景がなつかしく想い出されて来、自分と妙子の間に挟まって行儀正しく眠っている雪子の、痩せた、ほそぼそとした恰好までが髣髴(ほうふつ)と見えて来るのであった。〈531p〉
▼「掻巻(かいまき)」について。「日本大百科全書」には次のような詳しい説明がある。【寝具で、掛けぶとんの下に用いる綿入れの夜着の一種。小夜着より小型で綿も夜着より少なく入れ、袖下から身頃(みごろ)の脇にかけての燧布(ひうちぬの)をつけないで仕立てたもの。かい巻はふとんと異なって襟元が完全に包まれるので、肩から風が入らず、また体温の放散を防ぐから、暖かく就寝することができる。表布は無地、縞が多く、綿織物、紬など、裏布は無地の新モス、絹紬(けんちゅう)などを用いる。中に木綿綿(わた)(ふとん綿)を入れてふとんと同様にとじ、肩当て、掛け衿をかける。すでに室町時代の『御湯殿上日記(おゆどののうえにっき)』に「御かいまきの御ふく一つまいる」の記録がみられ、広く一般にも普及してきたが、昭和に至って毛布の普及と寝具の洋風化により、今日では利用度が以前に比し減少する傾向にある。[藤本やす]】
▼「ゆくりなく(も)」=思いがけなく。
▼幼い頃にどのようにして寝たか、は、大きな問題かもしれない。ちなみに、ぼくの場合は、物心ついてから、父母と同じ部屋に寝ていたという記憶はない。同居していながら、ぼくは祖父母の間に挟まれて寝ていた。そして、枕元のラジオからは、いつも民謡と浪曲が流れていた。それが「幸福」であったか、「不幸」であったか、ワタシはしらない。
▼やはり「雪子」は、特別な存在である。


★谷崎潤一郎『細雪』を読む 2017.1.24
今日は、「中巻」三十四(559p)まで。

……と、女将はうすうす病人と妙子との関係を察したらしく云うのであったが、幸子も何かじっとしていられない気持になり、また急報で蘆屋を申し込んで貰って、雪子を呼び出した。と、何を云うのやら、雪子の云うことが聴き取りにくくてさっぱり分らない。それは電話が遠いのではなくて、雪子の地声が小さいせいなので、彼女にすれば一生懸命咽喉(のど)を振り搾っているのだけれども、「はかない」という形容詞がよく当て嵌まる、細い弱々しい声であるから、電話だと実に明瞭を缺くのであった。で、平素から雪子ちゃんの電話ぐらい癇(かん)の立つものはないということになっており、彼女自身も電話は苦手で、大概誰かに代って出て貰うのであるが、今日は板倉に関することなので、お春にも云い付けられず、といって貞之助にも頼めず、仕方なく自分が出ているのらしかった。幸子は、少し話しているとじきに蚊の鳴くような細さになるので、しゃべっている時間より「もしもし」と云っている時間の方が長いように感じられたが、ようやくきれぎれに聴き取り得たところでは、今日の午後四時頃「板倉の妹でございます」と云って電話があり、板倉が耳の手術のために入院していたこと、経過は良かったのであるが、昨夜あたりから、容態が急変したことを知らせて来た、と云うのであった。〈538p〉
▼雪子の「地声」に関して。「はかない」という形容詞を使うのは、やはり雪子が特別だからだろう。
▼板倉は、妙子の恋人。耳の手術の失敗で、命まで落としそうな状態。無責任な医者の姿がくっきりと描かれる。今ではちょっと考えられない医療ミス。

 

★谷崎潤一郎『細雪』を読む 2017.1.25
今日は、「中巻」三十五(573p)まで。

▼中巻の最後は、妙子の恋人の板倉が脱疽で足を截断する手術もむなしく亡くなるエピソードの後、ドイツへ帰ったシュトルツ夫人とその娘ローゼマリーの手紙を紹介して終わる。
▼これで中巻読了となった。


 

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