岩野泡鳴「泡鳴五部作(2)毒薬を飲む女」を読む

 

 

 


 

岩野泡鳴『泡鳴五部作(2)毒薬を飲む女』その1   2018.6.28

 女房の千代子が怒鳴り込んできて修羅場となったので、義雄はお鳥を、大工の家の二階に移し、自分もそこへ通っていくようになったのだが、千代子は、陰陽術に凝って、お鳥を呪ったり、占いで新しい居場所を突き止めようとしたりしている。その占いが、どうもあたっている節がある、てなところから『毒藥を飮む女』は始まる。初出では、この冒頭のあたりは、『発展』の最後の部分だったらしいから、話は地続きである。

 

「おい、あの婆アさんが靈感を得て來たやうだぜ。」
「れいかんツて──?」
「云つて見りやア、まア、神さまのお告げを感づく力、さ。」
「そんな阿呆らしいことツて、ない。」
「けれど、ね、さうでも云はなけりやア、お前達のやうな者にやア分らない。──どうせ、神なんて、耶蘇教で云ふやうな存在としてはあるものぢやアない。從つて、神のお告げなどもないのだから、さう云つたところで、人間がその奧ぶかいところに持つてる一種の不思議な力だ。」
「そんなものがあるものか?」
「ないとも限らない──ぢやア、ね、お前は原田の家族にでもここにゐることをしやべつたのか?」
「あたい、しやべりやせん──云うてもえいおもたけれど、自分のうちへ知れたら困るとおもつて。」
「でも、あいつは、もう、知つてるぞ、森のある近所と云ふだけのことは。」
「森なら、どこにでもある。」
「さうだ、ねえ」と受けて、義雄はそれ以上の心配はお鳥に語らなかつた。無論、千代子が或形式を以つて實際お鳥を呪ひ殺さうとしてゐるらしいことも、お鳥には知らしてない。たださへ神經家であるのに、その上神經を惱ましめると、面倒が殖えるばかりだと思つてゐるからだ。
 が、お鳥も段々薄氣味が惡くなつたと見え、日の經つに從つて、義雄の話を忘れるどころかありありと思ひ出すやうになつたかして、つひにはまた引ツ越しをしようと云ひ出した。もし知られると、今までにでも、云はないでいい人にまで目かけだとか、恩知らずだとか、呪ひ殺してやるだとか云つてゐるあいつのことだから、わざと近所隣りへいろんな面倒臭いことをしやべり立てるだらうからと云ふのである。
 然し、この頃お鳥はおもいかぜを引いてとこに這入つてゐた。近所の醫者を呼んで毎日見て貰ふと、非常に神經のつよい婦人だから、並み以上の熱を持ち、それがまた並み以上に引き去らないのだと説明した。その上、牛込の病院に行けないので、一方の痛みも亦大變ぶり返して來た。
 かの女は氣が氣でなくなつたと見え、獨りでもがいて、義雄にも聽えるやうに、
「何て因果な身になつたんだらう」と三疊の部屋で寢込みながら、忍び泣きに泣いた。おもての方の廣い、然し向う側の森から投げる蔭をかぶつた室──六疊──には、憲兵が三人で自炊する樣になつてゐた。

 

 千代子は藁人形を作って、お鳥を呪い殺そうとしているらしい。恐ろしい。

 お鳥は、重い風邪をひき、しかも淋病の痛みもぶり返す。義雄のほうも、甲府で痛めた耳の具合がよくなく、その上、持病の痔が悪化して痛くてたまらない。義雄は「病気の問屋」だ。

 そんなとき、「龍土会」の忘年会があった。この「龍土会」というのは、「おもに自然主義派と云はれる文學者連を中心としての會合で、大抵毎月一囘晩餐の例會を開くことになつてゐる」と説明されているが、これは実在したもので、詳しくは以下のとおり。

明治時代の文学者の集会名。東京麻布竜土町(港区六本木七丁目)にあったフランス料理店竜土軒(現在は同区西麻布一丁目に移転)で会合をもつようになった明治三十七年(一九〇四)十一月以後この名が決まったが、会そのものは、三十年代前半に柳田国男が牛込加賀町の自宅に文学仲間を招いて文学談を楽しんだのがはじまり。柳田邸を離れて諸処の料亭を会場にするように発展したのは三十五年以後で、原則的には月例で、会員は特定しなかった。参会者は柳田国男・国木田独歩・田山花袋・島崎藤村・蒲原有明・岩野泡鳴・徳田秋声・正宗白鳥など自然主義系の作家が多かったが、小栗風葉・川上眉山なども参加し、ジャーナリスト・画家なども集まるようになり、次第に社交場化したので、初期の仲間は柳田国男を中心に四十年二月から別に研究会としてのイプセン会を派生させることになった。以後断続、大正二年(一九一三)三月二十一日柳橋の柳光亭で行われた島崎藤村渡仏送別会が事実上最後で、その後は復活の試みも成功せず、自然主義運動の母胎として終った。

(「国史大辞典」和田謹吾執筆)

 

 引用はしないが、この「龍土会」の様子が、ここでは生き生きと描かれていて実に興味深い。

 田島秋夢(徳田秋声)(注)、田邊独歩(国木田独歩)、花村(田山花袋)、藤庵(島崎藤村)などはすぐに分かるが、何度も出てくる「麹町の詩人」って誰なんだろうと思っていたら、「国史大辞典」で、ああ、蒲原有明かあと分かった。蒲原有明と「自然主義」の作家との交流は意外だった。文学史の授業だけじゃ、分からないことがいっぱいあるね。

 「病気の問屋」だった泡鳴にしてみれば、健康に恵まれた田山花袋がよほど羨ましかったらしく、こんな記述がある。

 

そして、花村の耳も鼻も目も内臟も、どこもかも健全で、而も巖乘(がんじよう)な體格が何よりも羨ましくなつたと同時に、獨歩の死んだ時、茅ヶ崎へ集まつた席で、義雄は自分が花村に向つて、君は僕等すべての死んだあと始末をして、誰れよりもあとで死ぬ人だと云つたことを思ひ出した。

 

 現に、独歩は明治41年に36歳で没し、泡鳴は大正9年に47歳で没しているが、花袋は昭和5年に58歳で没している。それでも長生きとはいえないけれど、泡鳴の「予言」も少しはあたっているわけだ。「少しは」というのは、蒲原有明は昭和27年に77歳で没し、島崎藤村は、昭和18年に71歳で没し、徳田秋声は昭和18年に71歳で没しているからだ。(ここを調べて書きながら、スゴイ発見をしたぞ。藤村と秋声は、生まれた年も、死んだ年もまったく同じだ!)また、そこにいたかどうかしらないが、正宗白鳥に至っては昭和37年に83歳で没している。しぶとい人だ。

 人の生き死になんて、分からないものだ。同窓会で旧友と会うたびに、誰が最後まで残るかなあなんて話題になるが、そんなこと誰にもわかりはしない。先に逝こうが後に残ろうが、結局は、みんないなくなる。いなくなって、それっきりなのか、それとも、どこかで「再会」するのか、それも分からない。「再会」できればそれにこしたことはないけれど、果たして話題が持つかなあと思うと、めんどくさい気もするし、まあ、人生って、よく分からない。

(注)この記述は間違いでした。「田島秋夢」のモデルは、「正宗白鳥」です。(2018.6.29記)

 

 


岩野泡鳴『泡鳴五部作(2)毒薬を飲む女』その2   2018.6.29

 

 友人から、もう少し「龍土会」のことを聞かせて欲しいという要望があったので、前回と重複するところもあるが、引用しておく。


 龍土會と云ふのは、おもに自然主義派と云はれる文學者連を中心としての會合で、大抵毎月一囘晩餐の例會を開くことになつてゐる。幹事は二名づつのまはり持ちで、この月には田島秋夢と今一名渠(かれ)と同じ新聞社にゐる人の名が出てゐた。
 義雄はこの會の最も忠實な常連の一人でもあるし、友人どもの顏も暫く見ないし、印刷を終つた自著『新自然主義』がいよ/\世間に出た當座の意氣込みもあつたことだし、喜んで出席することにした。そしてお鳥が、その日になつてもこちらの痔が惡くなるにきまつてるから止めて呉れろと頼んだのも承知しなかつた。
 中の町から檜町の高臺にあがると、麻布の龍土町である。そこの第一聯隊と第三聯隊との間に龍土軒と云ふ佛蘭西料理屋がある。そこが龍土會の會場であつた。
 義雄はそこに一番近いので、午後六時にはかツきり行つた。が、まだ誰れも來てゐない。
 ボーイを相手に玉を突いてゐるうちに、人がぽつり/\集つて來た。そのうちの一人が玉場へ飛び込んで來て、
「どうだ、久し振りで負かさうか?」かう云つて直ぐキユウを取つた。例の歌詠みから株屋の番頭に轉じた男だ。「然し、ねえ」と、かの永夢軒に於ける義雄の失敗を持ち出して來て、
「また電球をぶち毀すのは眞ツ平だぜ。」
「あれはどこの玉屋へ行つてもおほ評判ですぜ」と、そばにゐたそこの主人が少しおほ袈裟に笑つた。
「もう、大丈夫だよ。」まじめ腐つて答へながら、義雄も臺に向つたが、いろんなことが氣にかかつて、もろく勝負に負けた。
「よせ/\」と呼びに來たものもあつて、義雄も二階にあがつた。
 渠を見るのは近頃珍らしいので、皆が話をしかけた。
「君の著書をありがたう」と挨拶するものもある。
「あんな短い紹介だが、取り敢ず新刊紹介欄に載せて置いたよ」と云ふものもある。
「耽溺はどうなるのだらう」と、こちらが現代小説にやつた作のことを云ふものもある。
「君の女はどうした」と、ぶしつけに聽くものもある。
「顏の色が惡いが、過ぎるのだらう」と穿つたつもりでからかふものもある。
「また痔が惡くツて、ね、閉口してゐるのだ。」
「ぢやア、酒はやれまい」と、慰め顏に質問するものもある。が、渠はかた一方の耳がまだよくないので、左の方から云はれた言葉を度々聽き返したり、聽き落したりした。
 やがて椅子が定まつて、日本酒の徳利がまはつた。
 秋夢は幹事だから末席にゐる。渠は鋭い皮肉な短篇小説で名を出した人だが、外に「破戒」を書いた藤庵がゐる。「生」を書いた花村がゐる。劇場のマネジヤーを以つて任ずる内山がゐる。また外國新作物の愛讀者で、司法省の參事官をしてゐる西がゐる。その西が紹介した農商務省の山本といふ法學士がゐる。株屋の番頭がゐる。工學士の中里がゐる。麹町の詩人がゐる。琴の師匠の笛村がゐる。漫畫で知られる樣になつた杉田がゐる。或出版店の顧問、雜誌の編者等もゐる。
 かう云ふ人々の中にあつて、いつも渠等の談話を賑はすのは田邊獨歩であつたが、今年の六月に肺病で死んでしまつた。餘り出席はしなかつたが、矢張り、會員であつた眉山は、獨歩の死ぬ少し前に自殺した。
 眉山の自殺してから間もなく、茅ヶ崎海岸の獨歩の病室で、「この龍土會の會員の中で、誰れが眉山の次ぎに死ぬだらう」と云ふ話が出た。
「無論、田村の狂死、さ」と、毒舌家の病人は笑つて、「あいつが生きてるうちに、おれは死にたくない。」
 さう言はれるほど、義雄も隨分毒舌の方であるし、それをあとで聽いた渠は曾て獨歩の思想をまだ舊式だと批評したことがあるのを思ひ出したりしたが、今夜は甚だ勢ひがない。酒は平氣で人並みに飮んでゐたが、持病のむづがゆく且痛むのを頻りにこらへてゐた。
 花村は「鳥の腹」と云ふのを文藝倶樂部に出した男を捕へて、あの小説は描寫でない、下手な説明だ、きはどいところがあるのは構はないが、説明的だから、それを人に強ひるやうになつてゐる、挑發的だと云つて、發賣禁止になつたのも止むを得まい、などといぢめてゐた。
 藤庵は、或新聞記者に向つて、謙遜らしく、人生の形式的方面をどう處分してゐればいいのだらうと云ふやうなことを質問してゐた。
 西は内山や中里と共に頻りにイブセンやメタリンクやストリンドベルヒの脚本を批評し合つてゐた。
 かう云ふ別々な話がいつまでも別々になつてゐないで、互ひに相まじはり、長い食卓のあちらからも、こちらからも、機(はた)の梭(ひ)が行きかふ樣になつた時、義雄はその意味を取り違へたり、ただやかましい噪音が聽えたりする瞬間もあつた。それが如何にも殘念で、この耳だけに關して云つても、もう、これ等の人々と自由に話し合ふ資格がなくなつたのかとまで思つた。
「田村が乙に澄ましてゐやアがるので、今夜は少し賑やかでない、なア」と、株屋の番頭が云ふのが聽えた。「色をんなを持つと、ああおとなしくなるものか、なア?」
「けふは、何と云はれても、しやべる氣になれないのだ。」かう云つて、義雄は笑つたが、自分のいつも特別に注意を引くから/\笑ひも、それと好一對になつてゐる麹町の詩人の羅漢笑(らかんわら)ひと云はれるのに壓倒された。
 そして、花村の耳も鼻も目も内臟も、どこもかも健全で、而も巖乘(がんじよう)な體格が何よりも羨ましくなつたと同時に、獨歩の死んだ時、茅ヶ崎へ集まつた席で、義雄は自分が花村に向つて、君は僕等すべての死んだあと始末をして、誰れよりもあとで死ぬ人だと云つたことを思ひ出した。


 友人は、伊藤整の『日本文壇史』に、「龍土会」のことが書いてあるのだろうか? とも言っていたので、調べてみたのだが、どうも「龍土会」を取り上げていないようだった。(あくまでざっと調べただけなので、どこかに書いているかもしれない。)ついでだから、伊藤整は泡鳴をどう評価していたのかと思って、『日本文壇史』での扱いを見てみたのだが、『耽溺』と『泡鳴五部作』のざっとした粗筋を紹介しているだけで、きちんと「評価」していないことに今さらながら驚いた。伊藤整は泡鳴が苦手だったのかもしれない。「伊藤整全集」をこれもざっと見わたしたところ、やっぱり、泡鳴を正面から論じているものはなかった。

 それはそれとして、『日本文壇史』を読み返して、ハッとしたことがある。それは、『耽溺』以来、「田島秋夢」という名前で登場してくる友人を、ぼくは「秋」という字が入ってるからという理由だけで、勝手に徳田秋声だと思い込んでいたのだが、伊藤整は、はっきりと、正宗白鳥だと書いている。花袋を「花村」、藤村を「藤庵」なんて分かりやすい名前で登場させているものだから、「秋夢」は秋声だと思うのが順当だろうから、伊藤整の勘違いじゃないかと思ったが、今引用した部分をよく読むと、やっぱりぼくの勘違いだということが分かる。

 つまり、引用部分の最初の方「この月には田島秋夢と今一名渠と同じ新聞社にゐる人の名が出てゐた。」が証拠。この時期に、正宗白鳥は確かに読売新聞社に勤めていた。徳田秋声も読売新聞社に勤めたことがあるが、それは明治33年から34年にかけてのことで、この時点ではすでに社員ではない。この時点というのは、すでに泡鳴の『耽溺』が話題になっているのだから、明治42年ごろということになるのである。

 以前に書いたことを修正しなくちゃ。似たような偽名を使ったり、本名使ってみたり、全然関係ない偽名を使ってみたり、一貫性がないから困っちゃう、なんてブツブツ。

 ここに登場してくるいろんな人には、それぞれモデルがいるわけだが、分かりにくい。それでも「農商務省の山本といふ法學士」というのが柳田國男らしいとあたりはつく。彼が役人だったということは、どこかで聞きかじっていたからだ。だとすると、彼を連れてきた「西」というのは誰だろう、「歌詠みから株屋の番頭に轉じた男」って誰だっけ? なんて想像が膨らむが、まあ、このくらいにしておこう。きりがない。

 「龍土軒」の1階は、どうやら「玉突き場」になっているらしい。この頃、この玉突き(ビリヤード)が相当はやっていて、泡鳴も凝っていたらしい。『耽溺』にもその玉突きの試合の様子が具体的にエンエンと書かれているので、内容がさっぱり分からず閉口したものだ。そういえば、ぼくの子どもの頃にも、ぼくの町に「玉突き屋」があったのを思い出す。一度も入ったことはなかったが。

 自然主義の作家たちを中心にしたこの集まりの中で、義雄は耳を悪くしているために、会話がよく聞こえないことをひどく「残念」に思い、自分には彼らと自由に話をする資格もなくなったのかと落ち込む様子が印象的だ。そのうえ『耽溺』の評判があまり芳しくなく、せいぜい「耽溺はどうなるのだろう」というぐらいの反応しかない。泡鳴はたしかに、焦っていたのだ。

 

 

岩野泡鳴『泡鳴五部作(2)毒薬を飲む女』その3   2018.7.2

 妻の千代子がはやく死んでしまえばいいとまで思っていた義雄だったが、死んでしまったのは、子どもだった。


 義雄の耳は一向にはか/″\しくないのもまどろツこしくて溜らないのだが、痔の方がよくなつて來たので、學校の冬期試驗をやりにも行くし、段々氣力も恢復した。
 すると、自分の身に纏ひ付いたすべての面倒を早く振り切つて、早く樺太の事業に對する計畫に直進したくなつた。
 自分の耳も面倒だ。いとこの重吉が北の方からこちらの電報に對してまだ便りのないのも面倒だ。病人のお鳥も面倒だ。然し最も面倒なのは、夫婦に關する法律の規定と父の遺言とを楯に取り、我善坊の家にがん張つてゐるヒステリ女である。
「人を呪へば穴二つだ──早くあの千代子がくたばつて來(く)れりやア」と云ふ願ひが、義雄の胸を絶えず往來してゐた。ところが、意外にも、死んで呉れたのは千代子でなく、かの女が里にやつてあつたのを取り返した赤ん坊だ。

 

 原因はジフテリアである。この病気は最近の日本では耳にしないが、いわゆる「三種混合ワクチン」の摂取によって感染がなくなったようだ。しかし当時の日本では、ずいぶんとこの病気で命を落とす人がいた。

 子どもがジフテリアにかかって大変だから、来てやってほしいと千代子がお鳥を訪ねてきたことを知った義雄は、まず、どうして千代子にここが分かったのか不審に思う。聞いてみると、こんな次第だ。

 

「來たよ」と、かの女は半身を枕からもたげて、こちらを恨めしさうに見た。
「何が?」
「あいつが、さ。」
「さうか?」枕もとに坐つて、そ知らぬ風はして見たが、心のうちはかき亂されてゐた。第一、どうしてここを嗅ぎ付けただらう? 靈感などと云つても當てになつたものぢやアない。さきに、森のある近所などととぼけたのも、誰れかに聽いて知つてゐたのかも知れない。或は、また、先月の龍土會の歸りに麹町の詩人がそばまで來たから、あの男から大體の見當を聽いて來たのだらう。また、あんなに影が薄かつたのは病兒の看護に疲れたのに相違ない。それにしても、自分自身で出て來たのを見ると、子供はたとひ危篤だとしても、こちらが全く可愛がつてもゐないので、向うも燒けを起して來たのだらう。
 かう考へると、千代子の身の周圍を可なり興味づよく纏ひ付いてゐたこちらの不思議な幻影や、可なりおそろしく想像してゐた呪ひの魔力(まりき)や、罵倒しながらもかの女の子煩惱を取り柄として子供のことは委せ切りにしてあつた安心、などは全く消えてしまつた。が、きツと、かの女とお鳥とはまた云ひ合つてゐたのだと思つたので──それでわざと三時間ほどもよそへまはつてゐたのだが──その面倒くさい報告を聽かせられるのがいやであつた。
「また喧嘩したのだらう?」
「喧嘩などしやせん。」
「ぢやア、あがらなかつたのか?」
「さう、さ。」
「‥‥」それぢやア、まだしもよかつたと、義雄は多少氣を落ち付けた。
「でも」と、かの女は言葉を續け、「隣り近所へ入(い)らないことまでしやべつて行つた。見ツともなくて、もう、ここにもをられませんぢやないか?」
「どんなことを云つたのだ?」
「どんなことツて──」お鳥がふくれツつらをして語つたのに據(よ)ると、千代子は先づ辨當屋に當りを付けて這入り込み、そこでこちらのゐどころを確かめ、そこを出てからお鳥のもとゐた大工に行き、またその隣りの蒲團屋にまで行つて、お鳥に關することを洗ひざらひしやべり立てたのである。お鳥は、また、下の女から、それを聽かせられ、氣になつて溜らないので、寢床から飛び起きて、千代子のまはつたさきを自分も一々まはり歩いて、自分の辯護をすると同時に、向うの惡口も吹き立てて來たさうだ。
「どいつも、こいつも仕やうのない女どもだ、なア。」
「でも、皆がをかしな人だ、目ばかりきよと/\させて、聽きたくもないことをわざ/\しやべりに來て、と云うてゐた。」
「お前も云つたのぢやアないか?」
「あたいのはあとのことぢや──然し」と、お鳥は餘ほど讓歩してやると云ふ態度で、「子供が病氣なのは可哀さうだから、行つておやり。」
「そりやア、行くが、ね──」考へて見ると、第一子(女であつた)もヂフテリヤの苦しみに枕もとの小ランプを攫まうとしながら死んだ。第三子(男であつた)も同じ病氣であつたが、母に抱かれながら、なぜこんな苦しい目に會はせるのかと云ふやうな目附きを殘して死んだ。第一子の時は初めての子でもあるし、二年二ヶ月も生きた記念があるので、殘念に思つたが、第三子は自分からの子として二度目の死でもあるし、たツた九ヶ月をさう抱きもしなかつたから、惜しくはなかつた。今囘の赤ん坊に至つては、見たことさへ稀れな上に、どうせまた死ぬのだらうと思ふと、全く愛着が起らない。

 

 義雄が病院へ行ったときは、もう子どもは死んでいた。それでも、義雄はちっとも悲しまない。せめて死に顔だけでも見てやってくれという千代子に義雄はヒドイことを言う。

 

「まア、兎も角、死んだ兒の顏でも見納めに見ておいでなさいよ。」かう千代子が勸めたのにも意地を張つて、義雄は何か反抗の意味を云ひ返さないではゐられなかつた。
「血の氣のなくなつた顏などア、手めえのを見てゐりやア十分だ、──手めえマイナス氣ちがひイクオル死だ。子供は目をつぶつて、口に締りがなく、土色をして固くなつてるだらうが、そんなものも、もう、何度も見飽きてらア。」

 

 義雄の口の悪いのはもう慣れっこではあるけれど、ここまでくると唖然とする。しかし、これとても、義雄の「本心」ではないだろう。千代子への憎しみ、子どもへの無関心も、「本心」ではあるけれど、それでも、義雄の心には、「それ以外」のものもある。言葉にならない思いがある。けれども、言葉になると、こうしたとんでもない罵詈雑言になってしまうのだ。

 義雄の「本心」はなかなか見えないけれど、次のようなところをじっくり読むと、義雄の悲しみが切々と胸に迫る。

 

 やがて義雄の弟がやつて來たので、死骸に付き添つて桐ヶ谷へ行かせることにし、今夜はそこの火葬場の茶屋へとめて貰ひ、あすの朝、骨拾(こつひろ)ひをして歸るやうに命じた。
「とめて呉れるか知らん」と、馨《義雄の弟》はいやさうな顏をした。
「おれが前に經驗があるから、云ふのだ。」
「では」と、しぶ/\承知したので、義雄は渠(かれ)に火葬の手續き證の出來てゐたのなどを渡した。
 人夫の代りに呼んだ車夫も來たと云ふので、知春《義雄の三男。次女の富美子とともに、同じ病院にジフテリアで入院中。つまり、兄弟3人が感染して入院したのである。》の室には看護婦を殘し、千代子もしを/\として、義雄等と共に出て來た。
 死人の置き場が別に隔離室の建物のはづれに建つてゐて、田村の赤ん坊のほかに今一つの棺があつた。いづれにも、別々に蝋燭がともしてある。線香の立つてゐる粗雜な土皿もある。
 二名の看護婦が何か艶ツぽい聲をあげてきやツ/\と笑つてゐたが、義雄等の這入つて來たのを見て、急にしをらしい態度に改まり、火をつけたまま手に持つてゐた線香を棺の前の香皿(かうざら)にさし、
「南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛」と不慣れらしい聲で合唱した。
「たうとう死んでしまつて」と、千代子は棺を見詰めながら、「あんなに親が骨を折つて介抱したのに──憎らしい!」
「そんなことを云つたツて、死人にやア聽えやアしない。」かう云つたこちらの顏を、二名の看護婦はおそろしさうにふり返つて見た。渠自身もまじめになつてる自分の顏にはあごひげが三分ばかり延びてるのが自分の手ざはりで分つてゐた。この數日を剃るひまさへなかつたのだ。
「くるま屋」と、渠は怒鳴り付けるやうな聲で、──「これを乘せるのだ。」
「へい。」車夫はおづ/\棺に手をかけたが、輕いので、造作もなくその肩で運んだ。
 先づ馨が乘り、それから蹴込みへ白い布をかけた箱を乘せたのを見て、通りかかつた醫員が立ちどまり、
「何ですか、それは?」
「棺です」と、義雄はきつい、尖つた聲で答へた、分り切つてるぢやアないかと云はないばかりに。
「御注意までに申しますが、ね、知れると車は警察でやかましいのです。」
「ぢやア、これで包んでおやりなさい」と、千代子は自分の卷いてゐた絹の肩掛けをこちらへ渡した。醫員はそれを見て默つて本館の方へ行つてしまつた。
 一番長く──と云つても、きのふの夕方から──看護した若い婦人が一人、義雄等と共に裏門まで車に附いて來た。
「殘念だ、ねえ、もう、これツ切りかと思ふと──」
「お氣の毒でした、わ、ね。」
「桐ヶ谷だよ。」義雄が念を押すと、
「へい」と、車は駈け出した。
 歳の暮に近いさむ風がそのあとをひゆう/\云つてるのに義雄は氣が附いた。
 千代子はすすり泣きをして、袖を目に當てた。こちらも胸が一杯になつたが顏を反(そ)むけて、愁ひの色を隱した。そして、氣を無理に持ち直して考へた、死に行くものは自分に關係がない──亡父でも、自分に殘して呉れたのは、ただ梅毒もしくは痔と僅かな財産だけだ──千代子も死ね、お鳥も死ね、入院してゐる二名の子も死ね、さうしたら、最も冷たい雪や氷の中へでも、自由自在に自分の事業をしに行けると。
「さうだ。どうしても、わが國の極北へ行かなければならない──でないと、あいつ、意志が弱いのだ、爲(す)る/\と吹聽ばかりして、何も着手しない、と云ふ、友人間のそしりを脱する事が出來ない。」


 名文だなあと思う。骨の髄まで憎しみあっている義雄と千代子だが、ここには子どもの親としての情が濃密にからみあって流れているいる。それが、子どもの死を「他人事」としか考えられない看護婦や醫員の態度と鮮やかに対比されている。

 「愁ひの色を隠し」そして「気を無理に持ち直して」、みんな死んでしまえ、そうすればオレは自由だと心の中で叫ぶ義雄の思いの深さにうたれる。

 

 

岩野泡鳴『泡鳴五部作(2)毒薬を飲む女』その4   2018.7.4

 よせばいいのに、有楽座(1908年(明治41年)12月1日に開場し、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で焼亡した、日本初の全席椅子席の洋風劇場。数寄屋橋の東北約150mにあった。坪内逍遥らの文芸協会、小山内薫らの自由劇場、池田大伍らの無名会、島村抱月らの芸術座、上山草人らの近代劇協会ほか、新劇上演の拠点になったことなどで知られる。《ウィキペディア》)での長唄だの歌沢だのの演奏会に、義雄はお鳥を連れて出かけたが、そこへ千代子が乗り込んできて、大騒動となった。仲間の手前、義雄はなんとか二人を外へ連れ出したいと思うのだが、それがどうにもならない。半分気がふれたようになった千代子の言動は異様な迫力に満ちていて、読んでいてもドキドキしてしまう。

 

 番組第五の長唄「綱館(つなやかた)」が六左衞門等の絃(いと)で進行中、伊十郎が例の通り自慢らしく大きな音をたてて鼻をかんだのが、つい厭になつた爲め、氣を變へようとして席を立つた。すると、義雄は出口に近い一番後うしろの、誰れもゐない一列の椅子の一つに腰かけて、黒い羽二重の羽織りを着た千代子が、痩せこけた顏から兩の眼を飛び出させるやうにぎろ/\させて、こちらを見てゐるのに出くはした。
「こいつだ、な、お鳥を何かの手段で呪つてると云ふのは!」直ぐにもなぐり付けたかつた。が、あたりにこの會の内輪に屬する連中がゐるので、からだ中にみなぎる怒りの顫へを微笑にまぎらせ、そツとその前の椅子に行きながら、成るべく小さな聲で、「お前も來たのか?」
「お目出たうございます!」
「‥‥」渠は吹き出したかつたが、かの女の多少は遠慮してゐるらしい聲が、持ち前の癇性を運んで、ぴんと靜かな聽衆の耳に響いたと思はれたので、この演奏會のレコード破りをやつたやうな申しわけ無さを感じた。
「あなたばかりがいいことをして」と、こちらばかりに恨めしさうな目を注いで、「うちのものはどうするんです?」
 濱野孃や常任幹事の細君がじろ/\こちらを見てゐた。義雄は腰をかけたでもなくかけないでもなく、かの女に向つて椅子の背にもたれてゐるのに氣がついた。
 なほいつものやうな事を千代子が云つてるので、義雄は默つて廊下へ出てしまつた。が、かの女はついても來なかつた。
 ふら/\歩きながら、暫く氣を落ちつけて見ようとしたが、どうしても義雄の怒りと不面目な氣とが直らなかつた。
「千代子が來てゐるから、きツと面倒が起る。直ぐ歸れ」と、名刺の裏へ鉛筆で書き付け、案内の女に託したら、
「隣りのお方が取つてしまひました」と云つて、歸つて來た。
 渠が扉に付いてるガラス窓の羅紗をあげて、のぞいて見ると、渠の席へちやんと黒い羽二重の紋付きがかけて、メリンス無地の牡丹色の被布(ひふ)と並んでゐる。そこばかりが見すぼらしいやうに思はれて、お鳥をつれて來るのではなかつたと後悔された。迫(せ)めて被布が道行きで、道行きがメリンスなどでなく、且、都會じみた柄であつたらいいのに──かの女がいい氣になつて着てゐるのを幸ひに、何も新調してやらないのも、あんな下らない病氣の爲めに、かの女の病院通ひの入費がかさんだ爲めだ。
「馬鹿々々しい!」渠は自分で自分を非難しながら、別な扉から這入り、夫婦で來てゐる大野のそばに行き、渠に廊下へ出て貰ふやうに頼んだ。
「僕もさツきから」と、大野は酒くさい息を吹きながら、「何か事件が起るぞと云つてたのだ。困つた、ねえ。」
「兎に角、君が行つて何とかこの場だけは無事に濟ませて呉れ給へ。」
「何でも君の細君を一先づ外へ出して、なだめるんだ、ねえ。」
「ぢやア、頼む!」
 義雄はまた扉の窓からのぞくと、新式な洋服を着た紳士然たる友人が聲をひそめるやうに千代子の顏に近づいてゐると、かの女は何か云つて、つんけん/\と顎をあげてゐるのが見える。氣違ひ聲がここまで聽えるやうだ。
 やがて大野は出て來たが、
「駄目、駄目!」首をふりながら、「相變らず分らない、ねえ。おれの云ふことなんか、田村の友人だから、信じないツて。」
「困る、なア。」
「今夜こそ逃がさないで、方(かた)をつけると云つて、──ちやんと片手で」と、大野は口を結び、目を据ゑ、ちから強く握つた右の手を出して見せ、「向うの袂をやつてゐるよ。」
「仕やうのない奴ぢやアないか?」
「それもいいとして、さ、一方も亦大膽ぢやアないか? 見ツともなく袂を握られながら、どうせ來たのだから、わたしもおしまひまでゐませうツて。」
「おい、君」義雄は堪らなくなつて、「今一度二人を呼び出して呉れ給へ──どんなことが起るかも知れないから。」
「いやな役割だが、ねえ」と云ひながら、大野はまた這入つて行つたが、ぷり/\怒つて出て來た。「もうはふツとけ、はふツとけ──バーに行かう。」

 

 女房が乗り込んできたのに、お鳥の着物がもうちょっといいものだったらよかったのに、なんて思っている義雄は、自分でも馬鹿馬鹿しいと思っているようだが、実にフシギな男である。友人たちの手前、なんとか、ここだけでも穏便にすませたいと焦る義雄の俗物性を、泡鳴は見事に(自分のことながら)暴きだしてみせている。

 ようやく演奏会の幕も下りて、千代子もお鳥も会場の外の石段の上に出てきたが、千代子はまだお鳥の袂をしっかりつかまえて離さない。静子は、夫の大野を探しているので、義雄が探しにいくと、なんと大野は酔っぱらった巡査につかまっている。なんでも、妻に接吻をしているところを見たとかで、「風俗壊乱」の罪で警察へ来いといわれて腹をたてている。巡査は、演奏会場へ入れてもらえなかった腹いせで、そんな言いがかりをつけているらしい。大野は静子と接吻していたわけではなく、耳元で義雄たちの事情を話していただけなのだが、巡査はしつこい。こんな時代だったんだなあと隔世の感。

 ここに出てくる大野というのは、義雄の友人の画家だが、その妻の静子は、かつて義雄とも親しかった女。友だちの間では、この二人には関係があったと思っている者もいるようだと書かれている。義雄、千代子、お鳥、大野、静子という多人数の会話の描きかたの巧みさには、舌を巻く。そしてまた、ここには、思わず吹き出してしまうおかしさがある。

 演奏会場からの帰り道の場面だ。

 

 數寄屋橋から日比谷公園に至る道で、女どもの後ろに追ツ付いたが、靜子が昂奮した口調で早口にお鳥に物を云つてるのが聽えた。
「だから、ね、早く田村さんと別れるやうにおしなさい──どうせ、いつか、棄てられるにきまつてますから。」
「‥‥」
「ね」と、のぞき込むやうにして、「分りましたか?」
「‥‥」お鳥が高いあたまを少し頷(うなづ)かせるのが見えた。
「あなたも」と、靜子はちよこ/\千代子のがはにまはり、「あまりひどいでせう?」
「何がひどいのです!」千代子はその方へ向いて、顎に力を入れながら、「わたしが頼みもしないことを持つて來て、大野さんがぐづ/\云つたのです。」
「馬鹿を云ふな!」義雄も默つてゐられなくなり、つか/\と出て行つて、妻と、それから今の巡査とに對して押さへてゐた忿怒(ふんぬ)を一緒にして、この言葉と同時に、かの女の横ツつらを思ひ切りなぐつた。
「そんな野蠻なことを――」靜子はとめようとした。
「おれが貴さまを追ツ拂ふやうに大野君に頼んだのだ!」
「おほきなお世話です──かうしてつかまへてる以上は、うちまで引ツ張つて行つて處分を付けます。警察へでも、どこへでも突き出してやる!」
「あなたも少しお考へなさいよ、田村さんの──」
「考へた上のことですから、ね!」
「わたし、もう、知らん!──田村さんは女をみんなおもちやにしてしまはうとするのです」と、靜子は立ちどまつて泣き出した。すすり上げながら、「そんな人でもなかつたのに!」
 義雄は引き入れられるやうな感じがして、かの女の姉妹と直接に行き來してゐた時のことを今一度親しく思ひ浮べさせられた。そばへ行つて、
「兎に角、ねえ、奧さん、これから大野君の家へ行つて、あいつによく以後こんなことをしないやうに話して貰ふつもりですから。」
「兎に角、奧さん」と、大野も千代子をなだめるやうに、「これから僕の家へいらツしやい。」
「わたし、不賛成です!」靜子はからだを振つて、その所天(をつと)から一歩を退いた。「田村さんのやうな人は、もう、來て貰ひたくありません。」
「貴さまにそんなことを云ふ」と、大野はおも/\しい聲を出して、「權利があるか?」
「わたしだツて、大野さんのところなどへちツとも行きたかアありません!」
「默れ!」義雄は妻の言葉を制してから、友人に向ひ、「君まで夫婦喧嘩をしちやア困るぢやアないか!」
「あいつが獨り勝手な横暴なことを云やアがるから!」
「ぢやア、わたしはあなたの家庭をおいとま致します。」
「勝手にしやアがれ!」
「そんなことを云ふなよ、君。」
「なアに」と、大野はまた巡査に向つた時のやうに怒りの聲を顫はせて、力づよく、「生意氣なことを云やアがる!」
 お鳥はただ默つて、何かの機を見てゐたのだらう、この時、さきを握られてゐる自分の袂を兩手で攫(つか)んで、うん―うん―うんと云ふやうに、左右に三度振つたかと思ふと、それが千代子の手から離れた。
「あんなことをしましたよ」と、千代子は甘えるやうに義雄を見あげたので、渠はいやで/\ならない妻がまだこツちに頼る氣があるのだと知つて、自分も逃げ出したくなつた。

 

 友だちの夫婦喧嘩を仲裁しているうちに、自分たちも喧嘩になっちゃう大野夫妻、スキを狙って千代子の手を振り払うお鳥、「あんなことをしましたよ」と甘える千代子──もう、ほんとに泡鳴ってうまいなあ。

 

 

岩野泡鳴『泡鳴五部作(2)毒薬を飲む女』その5   2018.7.7

 

 有楽座を出て、夫婦のいさかいに大野夫妻も巻き込んだあげく、義雄は、千代子を振り切ることもできずに、夜の道を歩いて行く。

 

 義雄は千代子に引かれて、電車通りを、公園のふちに添つて歩いてゐたが、あの鶴子(以前、モデルにするために、義雄が音楽倶楽部へ連れて行った女。その女とは「無関係」だったのだが、倶楽部の人間に怪しまれて恥をかいた。)の爲めに遠のくやうになつた倶樂部の連中に、またこんなことがあつた爲め、又と再び會はせる顏がないかのやうな恥辱に滿ちて、一言も口を聽かなかつた。
 かの女も亦胸が張り詰めてゐるのを、その息づかひに現はした。かの女が月が滿ちた時に、よく苦しさうな息づかひをしたが、そのやうに肩で息をしてゐるのが、義雄によく分つた。
 公園を外れようとするところにある交番の前へ來ると、かの女はその方をじろ/\見ながら、獨り手に巡査の立つてる方へ義雄を引ツ張つてゐるのであつた。
 義雄は踏みとまつた。それが渠の袂の長さ一杯にかの女をこちらへ引いたわけになつたので、その手ごたへでかの女は氣がついたやうだ。
「わたしはどうかしてゐるやうだ。」かう、かの女は獨り言を云つた。
「訴へてどうなるんだ」と、義雄は極(ごく)さげすんだ意味を心ばかりで叫んだ。この氣違ひ女め! 何を仕出かすかも知れやアしない! が、撒いてしまふ折もうまく見つからない。人通りは少いが、少くとも、一人や二人は絶えなかつた。
 橋を渡つて芝區へ這入ると、直ぐ友人なる辯護士の家があるので、そこへ立ち寄つて話をつけ、今夜はおだやかに別れようかとも考へた。が、大野に迷惑をかけたのを思ふと、重ねて友人を騷がせるでもなかつた。
 成るべく人通りの少い横町などをえらんで引ツ張られて行つたが、
「きやツ」とか「恨めしや」とか、今にもこの女が變化(へんげ)になつてしまひはしないかと云ふ氣持ちが、渠のかの女を度々いぢめて來た記憶から、おそろしいほどに浮んで來た。不斷憎み飽きて、毆り飽きて、またと見たくはない顏を見て、一度でもいやな氣を重ねるでもないと、渠は出來るだけそツぱうを向いてゐた。
「年うへなばかりに増長して!」これは、もう、思ひ出したくもない。今の結婚法が改正せられ、男女どちらかの申し立てを裁判所で受理して、兎も角も訴訟を成立させることが、當分、望めるやうにならないとすれば、ただ/\この、自分には既に死骸の、女を早くどこかの闇へ方(かた)づけさせて呉れる願ひばかりだ。

 

 女一人に袂をつかまれているだけなんだから、男の力をもってすれば、いくらでも振り払うことはできるはずなのだが、義雄は、それ以上に恐怖にかられている。今すぐにでも、この妻なる千代子が「変化=化け物」に変わるのではないかとおそれおののいている。

 何とかして、この女と別れたいと思う義雄なのだが、それがなかなか実現しない。「今の結婚法」がいかなるものか、ぼくにはよく分からないのだが、離婚が今ほど簡単ではなかったことは確かなようだ。

 

 愛宕下(あたごした)の通りを横切り、櫻川町の大きな溝(どぶ)わきを歩いてる時、物好きにその中の黒い水たまりを人の門燈の光にのぞいて見た。そして、ふと、死んだ實母があか金(がね)の足つきだらひに向ひ、おはぐろを付けてゐるのを、自分はそのわきで見てゐたことがあたまに浮んだ。きたないやうだが、身に滲み込むやうなにほひで、黒い物から出るのか、それとも、吐き出されたそれを受けるあか金から出るのか、分らなかつた。
 ここのはただの溝のにほひに違ひないが、をどんですえ腐つた物の發散する分子がぷんと鼻さきへにほつて來ると、何だかかな臭い氣がして、母が新らしく生き返つて來さうに見える。
「All or nothing ──生でなけりやア、死だ!」
 この間に讓歩はない! 妥協はない! 人間その物の破壞は本統の改造だ──改造はそして新建設だ。ぶツ倒されるか、ぶツ倒すか──そこに本統の新らしい自己が生れてゐる! 渠はかう答へながら、面倒な物を引きずつてゐるにやア及ばない──いツそのこと、握られた袂を、あの、柔術を習つたと云ふお鳥の手を試みて、わけもなくふり切り、千代子を轉がし込む氣になつてゐた。
 溝の黒い水のおもてが暗くなつた。――そのまたうへが闇になつた。──自己の周圍がすべて眞ツ暗になつて――自己も、尖つた嗅覺のさきにをどみの垢がくツ付き、からだ中がひやりとしたと思つた。すると、反對に手ごたへがあつて、
「どうするつもりです、わたしを!」
「‥‥」渠の身の毛は全體によ立つてゐた。
「なアんだ、夫婦喧嘩かい!」かう云つて、黒い影が他方の路ばたを通り過ぎた。もう、十二時を越えたと思はれるのに、矢ツ張り、人通りが絶えない。
「‥‥」かの女は、さツさと、反對の側へ引ツ張つて道を進みながら、「人を水に投げ込まうたツて、そんな手は喰ひませんよ。」
「‥‥」
「それこそ馬鹿げ切つてる!」
「‥‥」渠が逃げようとして、ちよツと踏みとまると、かの女も直ぐ電氣に觸れたやうに手の握りを固めて、こちらをふり向いた。
「殺さうたツて、逃げようたツて、駄目ですよ、直ぐおほ聲をあげて、誰れにでも追ツかけて貰ひますから、ね」
 渠は答へもしないで歩いた。
 避けて來た交番だが、西の久保通りの、廣町角にあるのは、どうしてもその前を──而(しか)も挨拶して──通らなければならないのであつた。父の生きてた時、家へも來て、いつも顏を見おぼえてる巡査がゐる交番だ。
 千代子がここで本統に出來心でも起したら大變なので、その交番の手前で義雄はおのれの袂をふり切つた。
「おまはりさん!」かの女は實際に甲高い聲を出した。
 義雄は自分が水をあびせかけられたと思つて、つツ立つた。幸ひに人力車の響きが通つた爲め、向うへは聽えなかつたやうだが、渠は再び袂を握られてゐた。
 何げないふりをして通る二人を、顏を知らない巡査がゐて、怪しさうに見詰めてゐた。
 若し今の聲が聽えてゐても、こちらが發したのだと思はせない爲めにと、義雄は、ふと、その向う側のそば屋へ這入る氣になつた。千代子もあとからはしご段をあがつて來た。
「こんなところで喰べるくらゐなら、いツそ今一つ向うの、いつもうちで取るとこへ行けばいいのに。」
 もう、自分の物だと思つたのか、かの女の聲は以前よりも落ち付いてゐた。が、義雄は一層いや氣がさして、無言でぐん/\まづい酒をあふつた。

 

 「電車通り」「公園」「交番」を通り、そして「愛宕下」「櫻川町」「久保通り」「廣町角」と地名が並ぶと、歌舞伎や文楽の「道行き」をいやでも思い出す。それにしても、なんという陰惨な道行きだろう。「道行き」に伴う、エロチックでロマンチックな雰囲気はまるでない。しかし、「お歯黒溝」の黒さと悪臭と、瞬間的に訪れる「殺意」が、この夜の中で異様な光をはなっている。この描写の見事さは、あの『耽溺』のヘタクソな文章からは想像もつかない成熟だ。

 昔から理解しがたい「お歯黒」という習俗は、かならずしも「醜悪」なものではないのだが、ぼくにはどうしても「醜悪」にしか見えない。その「お歯黒」によって黒く染まる溝は、日本の女性たちがなめてきた辛酸そのもののように見える。

 「ここのはただの溝のにほひに違ひないが、をどんですえ腐つた物の發散する分子がぷんと鼻さきへにほつて來ると、何だかかな臭い氣がして、母が新らしく生き返つて來さうに見える。」とは、なんという表現だろう。

 闘病中だというのに、夫は女を囲い、そのいさかいのなかに46歳で没した母の思い出が、「あか金の足つきだらひに向ひ、おはぐろを付けてゐる」姿なのだ。それは母の悲しみ以外のなんだろう。日本の不合理な習俗、習慣(「お歯黒」だけではなくて、「妾」を含めて)の中で生きざるを得なかった母を思い出すにつけ、義雄の思いは、「人間の本統の改造」へと飛躍する。すべてを破壊して、「本統の新しい自己」を生み出したい、そう思う。その時、義雄は、千代子を溝に突き落とそうとしたらしい。そのことに気づいたのは、千代子からの「手ごたえ」だった。

 こうした展開に、少しの無理も感じないのは、これまでの、義雄と千代子の関係を、丁寧に正直に書いてきたからだ。見事である。

 


 

岩野泡鳴『泡鳴五部作(2)毒薬を飲む女』その6   2018.7.14

 女房の千代子がすぐに怒鳴り込んでくるので、その都度義雄はお鳥を引っ越しさせてきたのだが、今は、二軒長屋の二階にお鳥を移し、そこへ義雄は入り浸っている。階下の夫婦も年中喧嘩ばかりしている。亭主は、縁日商人だ。その喧嘩の様子が活写されていて、当時の庶民の生活が偲ばれる。

 

 とンと強く叩きつける煙管の音がして、
「わたしを何だと思つてるんだよ!」
「‥‥」
「假りのおめかけや、たまに旦那に來て貰ふ圍ひ者ぢやアないよ!」
「‥‥」
「お前の女房だ位は分らない野郎でもあるまい!」
「分つてらア、な。」
「それに何だツて、うちを明けるのだよ?」
 義雄は朝飯をしまつてから、机に向つてゐたのだが、下のこの怒鳴り聲に耳が引ツ張られてゐた。また一騷ぎあるだらうとは、婆アさんのゆうべの心配しかたで豫期してゐた。お鳥はけさも何だか慰めを云つて聽かせてゐたやうであつたのに──
「仲間のつき合(え)ひだから、仕かたがねい、さ。」
「つき合ひ、つき合ひツて、幾度あるのか、ね? そんなつき合ひは斷つてしまひなさいと云つたぢやアないか? 碌にかせぎもしないで!」
「うへの先生でもやつてることだア、な。」
「先生がお手本なら、直ぐ、けふ限り、わたしが斷つてしまふよ。」
「斷るなら、斷るがいいが、ね。」
「生意氣をお云ひでない!」
 義雄は自分の女房より一段どころか、二段も三段もうへを行く女もあるのだと思つてゐるのだ。
「何が生意氣でい──これでも貴さまを年中喰はせてやつてらア!」
「喰はせるだけなら、ね、犬でも喰はせるよ! 米の御飯が南京米になり、南京米が麥になり──」
「何だ、この婆々ア! 見ツともねいことを云やアがつて!」
「なぐるなら、なぐつて見ろ! 働きもない癖に!」
 取ツ組み合つて、あツちの障子に當り、こツちのから紙にぶつかりしてゐるやうであつたが、大きな女のからだが疊の上に投げ飛ばされるやうな音がした。
「婆々ア女郎め!」
「殺してやるから、さう思へ!」
 臺どころの方でがた/\云はせてゐたが、またとツ組み合ひが始まつたらしい。
「おい、行つて見ろよ」と、義雄はお鳥に云つたが、
「あたい、おそろしい」と、ちひさくなつた。
 渠が下りて見ると、婆アさんをねぢ倒して、そのさか手に持つてゐる出齒庖丁を亭主がもぎ取つたところであつた。
「どうしたと云ふんです、ね?」
「あの野郎がまだ目をさまさないから」と、婆アさんはからだを起し、「今、根性をつけてやらうとして。」
「どツちが」と、立つたまま荒い息をして、「腐つた根性でい?」
「手前(てめえ)に──きまつて──らア、ね」と、これも息を三度につきながら、立ちあがり、長火鉢の座に行つた。そして義雄に、「どうか──火の方へ──お近く。」
 亭主は、庖丁を臺所の方へ投げてから、婆アさんとさし向ひの座についた。そして、
「あり勝ちの夫婦喧嘩ですから、どうか惡(あし)からず」と云つて、若いが、こんな場合だけに血の氣の失せたやうな顏で笑つた。
 義雄には、この男がこんな老母のやうな女を女房と思つてゐられるのが不思議なほどであつた。ずツと若い時からのくツつき物なら知らず、まだこの二三年來の慣れ合ひだと聽いてるので、ただいろんな好き/″\もあるものだと思つた。
「まア、喧嘩をするにも及ばないでせう。」
「濟んで見りやア」と、眞面目な顏つきで亭主を見ながら、「馬鹿々々しいことですが、ねえ。」
「あは、は」と、亭主は笑つて見せた。
「女と云ふものは思ひ詰めりやア、われながらおそろしいものですから、ね──まア、先生も御用心なさいましよ。」
「十分用心が必要です、ね」と、ただほほゑんでゐた。
「わたしが先生の奧さんなら、をどり込んで殺してしまひますが、ね──まだあなたのは、教育もおあんなさるでせうから、おとなしく控へていらツしやるんです、わ。」
「さうでもないのだが──」かう云ふ人々が望む教育なるものが、今日のやうぢやア、これを與へるものの方針に非常に間違つたところのあるのを、義雄はどこかで訴へたくツてならないのである。「斯うすべからず」の消極概念が殆ど教育界全部を占領し、「斯うすべし」がまた、ほんの形式にばかりとどまつてゐて、有識者と云はれるものが凡て、如何に嚴格でも、また如何に熱心らしくあつても、空(くう)に他を教へようとして、少しも自己の實行如何を反省しない! 何のことはない、法律と教育とで以つてわが國人は自由なるべき人間本能の誠實を、わざ/\、無意義に制限せられてゐるばかりだ!
 たとへば、結婚と云ふ形その物が道徳でも實質でもない。實質が既に違つた以上は、その形の破れて新(あら)たまるのを認める法律が必要だ。同時に、また婦人から云つて見れば、くツ付き物が離れた場合にそこに獨立する精神や生活法がいつも具備してゐるところの教育を、不斷から、與へられてゐなければならない。お鳥のやうなものやこの婆アさんのやうな、身を棄てて低い生活に安んじられるものは、寧(むし)ろどんな教育でも入(い)りはしないとしても、中流生活の婦人が無教育ではない癖に獨立生活的教育の素養がないのは、わが國の發展を害する最も大な缺陥の一つで、自分が千代子に苦しめられてゐるのもそれが爲めだと思つた。
「どうせこんなことを云つたツて分らない」のだから、義雄は再び「もう喧嘩はしツこなし、さ」と云つて、二階へあがつた。


 この亭主と女房はいったい幾つ年が離れているのだろうか。確かに、「蓼食う虫も好き好き」だ。

 遅くなって帰ってきたことの言い訳に、「上の先生だってやってる」っていうのも子どもじみた話で笑える。

 ここにちらっと姿を見せる「教育論」。「こうすべし」のわが身をもって示す行動規範がなくて、ただただ「かうすべからず」の「消極概念」ばかりが「教育界全部を占領し」ているとの指摘は、今日でもその事情に大差なく、100年たっても、日本の教育に進歩がないような気がしてくるのが情けない。

 結婚をめぐる法律のことも問題視されているが、この頃の結婚に関する法律はどうなっていたのだろうか。簡単には離婚が認められていないようだが。

 帰りが遅ければ、出刃包丁の出番となる夫婦だが、こんな平和の時もある。

 

 がら/\と車の音がした。
 下の障子や格子戸があいて、婆アさんが外へ出た樣子だ。
 義雄も知つてる通り、かの女は、亭主が十一時から十二時までに歸りさへすれば、縁日商人の職業上當り前なので、喜んで出迎へるのである。そして、丁度可なりの傾斜を登つて來なければならないので、坂の中途まで行き、一緒になつてその荷車を押すのだ。
「今夜はどうだ、ね?」
「あんまりいいこともねい──もう、締めても──」
「まだ清水さんが歸らないんだよ。」
「へい――珍らしいことだ、なア。」
 燗酒のにほひが實際にして來た。
 錢勘定の音がちやら/\するにつれて、婆アさんが一心に銀貨と銅貨と、二錢銅と一錢銅とをより分けてゐるのが見えるやうだ。
 渠は熱苦しくなつたからだをまたうつ伏しにして、
「あれでも渠等は滿足して生活して行けるのだが──」と考へてゐた。

 

 最初の引用箇所もそうだが、目に見えない情景を、音だけで描く手腕が冴えている。それに、ここでは、「燗酒のにほひ」までが加わり、なんともいえない雰囲気があるのもいいなあ。

 珍しく、お鳥が夜になっても帰らない。階下の夫婦の生活を思いながら、義雄は眠れない。

 

 

 

岩野泡鳴『泡鳴五部作(2)毒薬を飲む女』その7   2018.7.21

 

 この小説もそろそろ終わりにしないと、きりがないので、最後まで読み切ったところで、全篇の粗筋を、吉田精一先生の「自然主義の研究」から引用しておく。粗筋といっても、叙述が必ずしも時系列にそってなされているわけではないので、これだけまとめるにもかなりの苦労があったこととしのばれる。


お鳥を義雄は女優にしようといふ目論見で、三味線を習はせはじめる。義雄は友人の周旋屋加集に蟹の缶詰の後追い金として二百円の周旋をたのむ。ある日彼は音楽クラブの演奏会にお鳥をつれて行くと、そこの妻君の千代子も来合はせて居り、騒動が起る。彼は千代子にひかれて家へ帰るが、溝わきを通る時、思はず千代子を突き落さうとする。このあとお鳥は自分を本妻にせよといひ出し、法律がゆるさないといふと、彼女は松の枝に紐帯をかけて縊死しようとしたりする。ある晩も「妻にしてくれ」といふのをとり合はないと、彼女は出歯包丁をとり出し、のどの上に擬する。それを手切れの機会とし、彼は印刷屋の二階にゐる加集のもとにかけこみ、彼女の病気(淋病と思われる)の治療費を出すことを条件として(お鳥を)彼に押しつけようとする。だが彼にはまだ未練がある。行く所もない彼は、またしても加集が彼女の為に借りた二階に彼女を尋ね、来合はせた加集と三人で寝る。あくる朝、加集から(かつて)お鳥と関係したことをきき、怒ってとび出したあと、お鳥はアヒ酸をのんで自殺をはかる。行きあった加集と彼はその枕もとでなぐり合ひをはじめ、彼はさんざんになぐられる。しかし、加集の周旋で金が出来、彼は樺太に旅立つ。

(  )内、山本注

 結局主な登場人物は、主人公の義雄とその妻千代子、そして愛人のお鳥、そして、周旋屋の加集ということになるのだが、この二人の男と二人の女の関係が、実に複雑な心理的葛藤を伴って描かれていて、この粗筋だけ読んでも、この小説の面白さは伝わらない。

 義雄は千代子を疎み憎んでいることは確かだが、お鳥に対する思いは、憎悪と執着の間を際限もなく揺れ動くのだ。

 お鳥が夜中に出歯包丁を持ち出すあたりの迫力にはぞっとするのだが、それを潮に今度こそ手を切ろうと思って、加集にお鳥を押しつける。ところが、いざ、お鳥と加集がひとつ家にいるとなると、どうにも嫉妬に耐えられない。それなのに、加集から告白されるまで、二人に肉体関係があったとは思っていないのだ。そんなことって普通はないよね。

 ひとつ家に住まなくたって、男と女はいつだって結ばれるチャンスはあるわけだし、まして、自分から女の友人に「押しつけた」のだから、結ばれないわけはない。
けれども、加集がお鳥と温泉に行ったと聞いて、義雄は逆上するのだ。義雄にさんざんなじられたお鳥は毒を飲んで自殺をはかる。逆上していったん家を飛び出した義雄だが、気になって家に戻ると、お鳥は毒を飲んでいた。幸い命に別状はなかったが、そこへやはり気になって戻ってきたのが加集で、義雄は加集にさんざん殴られる。いったんは、義雄も殴りかえすが、その後は、殴られるままになっている。思えば、悪いのは加集ではなくて自分なのだと義雄は思うからだ。

 そんな悶着があっても、加集は周旋屋としての義務は果たし、金を都合してくる。義雄は、その金をもって、お鳥を残して、樺太に旅立っていく。

 この小説のラストはこうなっている。

 

「アスタツマテ」と云ふ電報を、入院中だと云ふ弟をもはげますつもりで、樺太へ打つたのは、六月の一日であつた。そしてお鳥へは渠(かれ)の歸京まで豫定三ヶ月の維持費を渡した。
 二日の正午頃、お鳥だけが義雄を上野へ見送りに來た。かの女は、手切れの用意とはその時夢にも知らず買つて貰つたかのセルの衣物に、竹に雁を書いた羽二重の夏帶を締めてゐた。考へ込んでばかりゐて、口數を利かなかつた。
 いよ/\乘り込むとなつて、停車場のプラトフオムを人通りのちよツと絶えたところへ來た時、かの女は低い聲でとぎれ/\に、
「あたい、もう、あんたばかりおもてます依つて、な、早う歸つて來てよ。」
「ああ──」と返事はしたが、義雄の心には、音信不通になるなら、これが一番いい時機だと云ふ考へが往來してゐた。そしてその方がかの女將來の一轉化にも爲めにならう、と。
 然し窓のうちそとで向ひ合つてから、渠は右の手をかの女にさし延ばした、かの女は自分の左の方にゐる人々の樣子をじろりと見てから、目を下に向けて、そツと自分も右の手を出した。「三ヶ月素直に待つてゐられる女だらうか知らん」と疑ひながら、渠は握つた手を一つ振つてから、それを放した。そして、「あの八丁堀の家は、おれの云つた通り、きツとよすだらう、ね、加集に知れないやうに」と、念を押した。
「そんな心配は入(い)らん!」
 この優しいやうな、また強いやうな反抗の言葉が、この二十二の女の誠意に出たのか、それともこちらをいつも通り頼りない所帶持ちあつかひにした意なのか、──孰(いづ)れとも義雄の胸で取れたり、うち消されたりしてゐる間に、汽車出發の汽笛が鳴つた。

 

 しみじみとした感慨をもたらすいい文章である。

 お鳥の義雄に対する思い、また、義雄のお鳥に対する思いは、それぞれに、複雑極まり、「愛」などという言葉では語ることを許さない。

 思えば、「愛」などという言葉で語れる男女関係など、この世に存在するものではないのだろう。

 けれども、義雄が、どんなに恐怖し、憎悪し、侮蔑し、離れたいと切望しても、お鳥への「執着」だけは断ち切れない。そして、どんな状況におかれても、最終的には、お鳥のことを考えているということだけは確かなことである。それならば、少なくとも義雄はお鳥を「愛している」と言ってもいいのではなかろうか。そしてまた、男女の「愛」は、多かれ少なかれ、こうしたものなのではなかろうか。

 この小説の題名『毒薬を飲む女』は、泡鳴自身がつけたものではなく、もともとは『未練』という題だったが、「中央公論」の編集者滝田樗陰が『毒薬を飲む女』というセンセーショナルな題に変えたという。そう変えたほうが売れると思ったのだろうが、『未練』のほうが、この小説の核心をあらわしている。

 

 


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