岩野泡鳴「泡鳴五部作(3)放浪」を読む

 

 

 


 

岩野泡鳴『泡鳴五部作(3)放浪』その1   2018.8.2

 

 泡鳴五部作の三作目『放浪』は、こんなふうに始まる。

 

 樺太で自分の力に餘る不慣れな事業をして、その着手前に友人どもから危ぶまれた通り、まんまと失敗し、殆ど文なしの身になつて、逃げるが如くこそ/\と北海道まで歸つて來た田村義雄だ。

 

 前作『毒薬を飲む女』の末尾が、義雄が、樺太へ行くために上野駅から汽車に乗り、発車の汽笛が鳴る場面だったので、この『放浪』では、まずは樺太での事業とその失敗のいきさつが細かく描かれるのだと思っていたら、これである。最近の『半分、青い』みたいな、すっ飛ばしで、びっくりする。

 このあと、カットバックで、樺太でのことが描かれるのかもしれないが、どうなのだろう。

 岩野泡鳴の小説を読み始めたころの短篇に『熊か人か』というのがあって、これは樺太を舞台にして蟹を捕って生活する夫婦の話で、結末が妻が熊に喰われてしまうという凄惨な話だったが、これは完全なフィクションだった。それでも、樺太の寒さとか、大地とか、海とかの様子の描写がなかなか魅力的で、この『放浪』にも、そうしたものを期待していたのだが、冒頭から肩すかしをくらった感じだ。

 で、話はそのあと、こんなふうに展開する。

 

 小樽直行の汽船へマオカから乘り込んだ時、義雄の知つてゐる料理屋の主人やおかみや、藝者も多く、艀(はしけ)で本船まで同乘してやつて來たのは來たが、それは大抵自分を見送つて呉れるのが主ではなく、二三名の鰊漁者、建網番屋(たてあみばんや)の親かたを、「また來年もよろしく」といふ意味でなつけて置く爲めだ。
 渠(かれ)とても、行つた初めは、料理店や藝者連にさう持てなかつたわけでもない。然し失敗の跡が見えて來るに從ひ、段々融通が利かなくなつて來たので、自分で自分の飛揚すべき羽がひを縮めてしまつたのである。よしんばまた、縮めてゐないにしたところで、政廳の方針までが鰊を人間以上に大事がり、人間はただそれを捕獲する機械に過ぎないかの樣に見爲(みな)してゐる樺太のことだから、番屋の親かた等がそこでの大名風を吹かせる勢ひには、とても對抗出來る筈のものではない。
 渠等が得意げに一等室や二等室へ這入つて行くのを見せつけられて、自分ばかりが三等船客でなければならなくなつた失敗は、如何に平氣でゐようとしても、思ひ出せば殘念でたまらなかつた。
 一等船室には、實際、三名の番屋が三ヶ所に陣取つてゐた。いづれも、それが自己の持つてゐる漁場から、マオカへ引きあげて來た時、例年の通り、負けず劣らずの豪遊を試みてゐたので、その時義雄も渠等と知り合ひになつた仲だ。北海道相撲の一行が來て三日間興行をした時なども、渠は渠等と組んで棧敷を買ひ切り、三日を通して大袈裟な見物に出かけ、夜は夜で、また相撲を料理屋に招いて徹宵の飮(いん)をやつた。
 その親かた等の一人は義雄の事業に來年から協同的補助を與へてもいいといふ申し出をしてゐた。義雄もそれが若し成り立てば、今年の事はたとへ損失が多くても、辛抱さへしてゐればいいからといふ考へである。その相談はどうせ小樽に着してからでなければ孰(いづ)れとも定められない事情であつた。が、渠がふと三等室を出て、その人の室へ行つて見ると、その人は赤黒い戸張りの奧に腰かけて、そばに一人の女をひかへさしてゐる。
「これは失敬」と云つて、義雄が出ようとすると、
「いいのだよ、君も知つてるだらう」と引きとめ、その手で女の頸を押し出す。
 見ると、お仙と云つた藝者だ。つき出された顏が笑つてゐる。義雄は、出發の前夜も、その人に連れられて酒店へ行き、この女を招いて飮んだのだ。その夜ふたりは關係したか、どうかは知らないが、以前は確かに關係があつたらしい。よく聽いて見ると、かの女は丁度いいしほに乘つて、見送りにかこつけ、マオカを脱走し、旅費だけをこの番屋に出させたのだ。

 

 ここに出てくる「マオカ」というのは、樺太が日本の領有下であったころに存在した「真岡町(まおかちょう)」のこと。(どうでもいいことだが、ぼくは、最初「マカオ」と読んでしまい、どうして樺太から北海道へ帰るのに「マカオ経由」なのかと混乱してしまった。毎度のことながらお恥ずかしいことだ。ぼくはいつもこんなトンチンカンな読み間違えをして混乱している。何度も書いてきたことだが、宮沢賢治の『なめとこ山の熊』を、何十年も『なめこと山の熊』と読み間違え、中味を読まずに、ずっと、「ナメコの好きな(あるいは嫌いな)熊」のお話しだと思いこんでいた。)

 北海道がニシン漁で賑わっていたころの風俗がよく伝わってくる。金のあるところの女あり、ってことか。ありあまる金の使い道って、実はそんなに多くないのかもしれないなあ、なんて、ぼくには縁のないことを考える。

 「飛揚すべき羽がひを縮めてしまつた。」というのも、耳馴れないが、「羽交い締め」の元だろうか。いや「締める」じゃなくて「縮める」だから、違う言葉だろう。「羽交い」というのは、「鳥の左右の翼が重なる所。鳥の羽根。」のことだから、「羽がひを縮める」は「羽根を小さく縮めてしまう」ということだろう。つまりは、「自由を奪われてしまう」の意。

 「政廳の方針までが鰊を人間以上に大事がり、人間はただそれを捕獲する機械に過ぎないかの樣に見爲(みな)してゐる樺太」とあるが、こうした社会の構造は、結局今も変わりはしないということだ。「生産性のないヤツに税金は出すな。」みたいな言説は、こんなに深いルーツをもっているわけだ。泡鳴は、そうした社会のあり方に、いつも違和感をもち、いつも戦っていたのだろう。表面上は、自分が金持ちになれないことへのウラミツラミに見えるが、根底にはそういうものがあったはずだ。泡鳴の小説には、ところどころに、文明批判が織り込まれていて、見逃せない。

 「相撲」というものが、単なるスポーツではないことがこうした記述からもよく分かる。こうした背景を知らないで、近代スポーツとごちゃ混ぜにするから、いろいろ面白くない事態となるわけだが、だからといって、今の相撲が、この時代に戻っていいわけでもないわけだが。

 ことほどさように、ここだけを読んでも、当時の樺太の状況、北海道のニシン漁の繁栄、番屋の親方の豪放ぶり、したたかな芸者、興行としての相撲、などなど、いろいろなことが細かく分かって、興味が尽きない。リアリズム小説の恩恵である。

 この小説の当時の評判を吉田精一が『自然主義の研究』で紹介している。

 

これだけを独立の長編として見れば、出て来る人物に対する適切な予備知識や、具体的印象を与へる環境の設定に欠けるところがあって、「小説とあるが、岩野君の放浪日記にすぎない」(「北海タイムズ」)といふ評の出るのも止むを得なかったかも知れぬ。しかしラフで、荒削りな筆致は力強い。却ってそのやうなバサバサした表現によって、新開の植民地的な北海道の特殊な空気や、若々しい気分が生々しく出ているのは、諸家の一致してみとめるところであった。(上司小剣「読売新聞」八月二一日、相馬御風「早稲田文学」)

 

 こうした「情報」を丹念に収集して、きちんと書いておいてくれるというのは、ほんとうにありがたい。言葉を残す、ということは、大事なことだ。学者の本領のひとつはそこにあるのだろう。

 


岩野泡鳴『泡鳴五部作(3)放浪』その2   2018.8.5

 

 樺太での蟹缶の事業が失敗して、すっからかんになってしまった義男は、10年も会っていない友人宅に転がりこむ。有馬勇という男で、義男よりちょっと年上の国語教師である。

 この時代、一文なしになっても、友人宅に転がり込むという手があったというのが不思議といえば不思議だ。今のように家庭というものが、ガチガチに固まっていないということなのだろうか。貧しい時代なのに、どこか妙な「ゆるさ」を感じる。

 札幌の友人有馬宅へ行ってみると、夏休み中のこととて、有馬は子どもを連れて買い物に行っていて不在で、だれもいないが、しばらくして、その女房がむかえる。


 廣いその眞ン中に低い草が生えたままにしてある通りを行くと、左りに北海道廳の柵がまはしてある。その柵内に直立して、天を突くさかさ掃木(ぼうき)の樣に高い白楊樹《ポプラのこと》の數々と、昨年の火災に燒け殘つた輪廓ばかりの道廳の赤煉瓦とを再び見ると、急になつかしい友人に近づいて來た氣になる。
 そこから一町も行かないところに、通りは農科大學の附屬博物館構内の柵に行きつまる。柵内に繁茂してゐる、脊の高いアカダモや、ドロや、柳やの森をのぞむと、然し、渠は、數ヶ月前の月の夜に、友人と共にその間を散歩しながら、今囘着手した事業の成功を身づから保證したことがあるのを思ひ出す。それが今囘殆ど手ぶらで歸つて來たのであるから、何となく顏を會はすのが恥かしい樣な氣もする。且、みやげもなく、また用意の小使錢も殆ど皆無のあり樣だが、博物館そばの通り角の友人の家に着いた時は、遠慮もなく、玄關のがらす戸を明け、
「歸つて來ましたよ」と、無造作に這入つて行つた。
 半間ばかりの土間があつて、そこから障子をあけてあがると、直ぐ茶の間で、六疊敷の左り寄りのがらす窓のもとに、ちひさい四角い爐が切つてある。爐の中には、奇麗な小粒の石が澤山敷きつめてあり、その眞ン中に沈めた丸いかな物の中の灰にはおこつた火が埋めてあるかして、天井から鐵の自在鍵(じざいかぎ)でつるした鐡瓶の湯がくた/\云つてゐる。
 然し裏の方はすべて明けッ放しのまま、家族のものは誰れもゐない。右の方の客間や寢間もみな方(かた)づいたまま見られるし、直ぐ奧の臺所からは裏の共同庭も見透かされる。義雄は持つてゐた包みをそこに投げ出し、爐のそばにあぐらをかいて、煙草をのみ初める。そして、暫らくここに落ちついてゐられるか知らんと考へて見る。
 けふは、明治四十二年の八月十六日だ。初めてここへ訪問してから、もう、三ヶ月餘りを樺太に經過した。そしてそれが殆ど全く失敗の經過であつた。ここに滯在してゐるうちに、向うから多少囘復の報知が來ればよし、さうでなければ、北海道で一つ何かいい仕事を見附けなければならない。
 然し友人はまだ某女學校の國語漢文教師であつて、僅かの俸給によつて、夫婦に子供ふたりの生計を立てて行く人――交際も狹からうし、また義雄一個がその生計の一部分に影響しては、苦しい事情があるかも知れない。兎に角、札幌へ來ての第一着は、自分のその日を送るに足るだけの定收入を作らなければならない。これはこの友人に話しても駄目だらうから、けふにも、今ひとりの、これはさう親しくないが、知人で、近々一實業雜誌を發刊しようとしてゐるものに行つて、早速相談して見よう。
 などと考へてゐるうち、奧の方の共同庭――そこは、通り角の兩面に立ち並んでゐる家々に共通の裏庭だ――を、細君が衣物(きもの)の裾を腰まで裏返しにはしよつて、手桶を兩手におもたさうに下げてやつて來るのが見えた。水口を這入つてから、かの女は義雄のゐるのに氣がつき、
「あれ、まア」と、東北辯の押しつまつた口調で驚きあわてて、裾の端折(はしよ)りをおろす。それで、義雄が第一に穢(きたな)らしいと思つた白の腰卷きが隱れる。
「歸つて來ましたよ」と、渠が何氣なく笑つてゐると、かの女は爐ばたへやつて來て、
「いらツしやい」と挨拶する。「いかがでした、樺太の方は?」
「失敗でした、矢ツ張り」と、ほほゑみをつづけて、「然しまだ囘復策が出來さうなので、ちよツと北海道まで歸つて來ました。」

 

 これからどれだけ世話になるかしれないのに、手土産ひとつ買う金がない。いくら友人とはいえ、10年もあっていないものの家にやっかいになるのに、「帰ってきましたよ」が最初の一言。びっくりする。

 友人宅までの道のりを、さっとスッケチしておいて、友人の家も簡潔に描写する手際が見事だ。そこへ、登場してくる「細君」のラフスケッチも水際だっている。

 着物の裾を腰まで端折っているから見えてしまう「白の腰巻き」が「穢い」と書く。冷徹な視線である。その腰巻きの「穢さ」というのは、ただ、単に物理的な「汚れ」だけではなくて、生活、生き方の「だらしなさ」なのだ。

 子ども二人を抱えて、教師たる夫の微々たる給与で生活する妻は、「きれい」でいることなんてできはしない。どうしたって、「糠味噌臭く」なってしまう。仕方のないことなのに、義男は「穢い」と感じるのだ。これは義男(=泡鳴)の強いこだわりである。

 義男は、自分がここにやっかいにならねばならぬ事情を正直にこの細君に話す。夫はなかなか帰ってこないので、義男は銭湯へ出かける。


 札幌區立病院の廣い構内に添うて角をめぐり、その本門の前を通り過ぎた湯屋に來た。他に客はない。そこで樺太の垢をおとしながら、この夏をいつまでこの湯に這入りに來なければならないのか知らんと考へる。あちらで旅館の狹い湯に這入りつけてゐた身には、錢湯の廣いのが先づ心をも廣く、ゆるくする。
 そしておほきな湯船にはだかのからだを再び漬ける時など、何だか自分に犯した罪惡でもあつて、それの刑罰に引き込まれる樣な氣分だ。湯の底が烈しい音でもして、ほら穴に變じはしないかとあやぶまれた。
 節々がゆるんで、そのゆるんだ間から、自分の思想が湯氣となつて拔け出たのだらう。ぼうツとなつて、自分の神經までが目の前にちらつく。
 どうも底から破裂しさうな氣がするので、湯船を飛び出し、板の間で再び垢をおとし初めると、身が輕くなるに從つて、不安が自由におそつて來る樣だ。
 好きな湯に當りかけるのか知らんと、水船の水を汲んで顏を洗ふ。ひイやりすると同時に、不安の材料がはツきりと胸にこたへて來た。弟と從兄弟とが樺太で餓ゑ死にするかも知れないが、かまはないか? 東京で、妻子は心配の爲めに病氣になるかも知れないが、いいか? 愛妾も、亦、薄情を怨んでゐるが、どうだ?

 

 義男は、豪快なようでいて、繊細で心配性な男なのだ。

 こういう銭湯のシーンを読むと、銭湯という場が、生活の中で、家庭から離れてほっとしたり、癒やされたり、思索したり、気分転換したりする、なかなか重要な場だったのだなあということがよく理解できる。

 そういえば、ぼくの父は、家風呂があるのに、毎日のように仕事が終わると銭湯に行っていた。ペンキ屋の親方として働いていた父だが、会社勤めと違って、家で帳簿をつけていたりすることも多かったから、家庭での「嫁VS姑」の諍いに耐えられなかったのだろう。ぼくを一緒につれていってくれなかったのも、よっぽど一人になりたかったのだろうか。

 銭湯から帰ってみると、友人が女の子と一緒に姥車(うばぐるま)を押しながら帰ってくる。その姥車には、一郎という男の子と、リンゴがたくさん乗っている。なんでも、リンゴがずいぶん安いので大量に買ってきたのだという。


 ふたりの子供は、喰ひたさうな顏つきをして、籠の中の物をいぢくつてゐる。
「その林檎はちひさくツて、青いぢやアないか」と、義雄が云ふと、
「なに、こいつア青くツても喰へるやつだ。」勇は生來の東京ツ子口調を出して、
「この手は、もう、けふあすでおしまひだ。今にも雨が降りやア、熟(う)んでしまつて、喰はれない。買ひ時だから行つて來たのだが、もう遲過ぎたくらゐだ――こんなに澤山でも、安いのだよ。」
 かう云つて、勇がその値段を説明するのを聽くと、マオカに林檎の初荷が着した時に買つて見たのよりは十層倍も安いのに、義雄は驚いた。東京で、ジヤガ薯を買ふのと同じ樣な格だらう。北海道に來てから、所帶持ちの苦勞に親しんだ勇が、十餘町の道の暑いのをことともしないで、姥車を押しながら往來したのは、もツともだと思はれた。
「そんなに安いものなら、僕も少し買つて置きたい、ね、食後に二つ三つづつ喰ふのに――」
「もう、遲い――これをやり給へ、澤山あるのだから――暫らく立つと、また捨て賣りの時期が來る。買ひに行くのはその時にし給へ、それまで君がゐることになるなら。」
「どうせ、僕、今も細君に話したことだが、暫らく御厄介になるよ、迷惑はかけないつもりだから。」
「そんな心配には及ばないが、君さへよければ、いつまででもゐて呉れ紿へ――その代り、何のおかまひも出來ないのを承知して置いて貰はなけりやア――」
「かまつて貰つては却つて僕が困る――今の場合、僕は大道で乞食(こじき)をしさへしなければいいのだ。」
 大道で乞食! これは、義雄自身には痛切な發想であつたが、勇には戲言(じやうだん)と見えたのだらう、渠は不審らしく發想者の顏を見た。義雄はやはらかに微笑してゐるが、その微笑はアカダモの枝がかぶせたやはらかさで、幹には犯し難いほどの嚴肅な寂しみを感じてゐた。


 明日になれば腐ってしまうリンゴ。それならば、安いからといって、こんなにたくさん買ってしまって、今日中に食べきれるのだろうか。

 「喰ひたさうな顏つきをして、籠の中の物をいぢくつてゐる」二人の子どもがいじらしい。最近、こういうのにヨワイ。

 

岩野泡鳴『泡鳴五部作(3)放浪』その3   2018.8.11

 

 中学教師有馬勇の家に転がりこんだ義男は、勇の妻お綱を相手に、結婚後の女性がいかにダメかをとうとうと論じる。世話になる人を相手にする話じゃないが、そんなことにはお構いなしなのが義男だ。結婚後の女性への罵倒は、自分の妻千代子への罵倒なのだが、同じ女性として、お綱も黙って聞いていられないからムキになって反論する。

 義男は、樺太での事業が失敗して、どの面さげて東京の友人に会えるだろうかと言うと、勇が言う。

 

「友人も友人だらうが、細君が困つてやアしないか?」
「今も云つた通り、家を處分して、困らんだけの方針をつけるやうに命令してゐるのだから、それ以上に僕は責任がないのだ」
「それは少し」と、お綱は、さツきから林檎をむいてゐたが、そばから、そばから子供に喰はれてしまふので、もう、よしたと云はないばかりに庖丁を投げ出して、口を出した、「奧さん達にひどいでは御座いませんか? 家をお賣りになるにしても、あなたが御留守では女獨りでお困りでせうよ」
「なアに、誰れか相談相手を見つけて來るでせう。――僕は友人に會ふのはまだしもだが、女房や子供のつらを見るのが何よりの苦しみです、げじ/\を見る樣にいやで、いやでたまらないんだから。」
「あんなことを」と、お綱は義雄が眞面目にこんなことを云ふ顏を見て笑ひながら、「奧さんがお氣の毒です。ね。」
「もとはさうでもなかつたらしいが、ね」と、勇は八九年前の同僚時代のことを思ひ出した。「一緒に京都や竹生島などへよく旅行や見物に出かけたりして、仲がよかつた樣であつたぢやアないか?」
「うん、あの時はまだ、妻が僕より年うへだといふ訣點がさほど現はれなかつたので、僕が家庭といふものにまだ絶望してゐなかつたのだらう。然し、奧さんの前ではあるが、日本の女は殆どすべて、誰れでも、男子に對する情愛的努力が足りない。早くませて婆々アじみてしまふ癖に、つまり、精紳に張りがないのだ。結婚してしまひさへすりやア、もう、安心して、娘の時の樣な羞恥と身だしなみ──寧(むし)ろ、男子の心を籠絡(ろうらく)牽制して置く手段と云ふ方がよからう──を怠り、『わたしはあなたの物です、どうとも勝手におしなさい!』──」
 義雄はかう云ひながら、眞面目くさつて顎をつき出し、さも憎らしさうな口眞似をして見せた。
「ほ、ほ、ほ」と、お綱は之を見て吹き出すと、おとならしく無關心の樣な、もツともらしい樣な風をして聽いてゐる勇も、亦微笑する。


 お綱も、まあ、初めのうちはこんな感じで、吹き出したりしているが、義男はそれをいいことに、ますます調子に乗ってしゃべりつづける。要するに、女は一度結婚して子どもが生まれると、およそ色気なんてものをなくしてしまい、夫などには目もくれず、子どもにつきっきりになる。それがいけないのだというのが義男の主張だ。

 こういったことは、よく今の男でも口にするところだが、義男はもっと徹底していて、子どもに愛情を移すのは夫への裏切り、謀叛だとまでいうのだ。これにはお綱もむっとして言い返す。


「それはあんまり角の立つ云ひ方です、わ。」お綱はいよ/\躍起となり、顏までがほてつて來た樣だ。「そんなことをおツしやるお方なら、わたし、あなたをおそろしくなりますよ。謀叛人なんかツて、女の心はそんなものとは反對です。子寶とも云ふ子供ですもの、それを夫婦が可愛がつて育てるのに不都合は御座いますまい。」
「奧さん」と云つて、義雄は身づから少し反省した。そして、わざと微笑を漏らしながら、「間違つて貰つては困りますよ、これは根本のところ僕が僕の妻に對する不平であつて、決してあなたがたに關して云つてるのぢやアないのですから──」
「それはわたしにも分つてをりますが、あなたがあんまり女のことを惡くお云ひなさるものですから、わたしも自然辯解したくなるのですもの。」お綱も微笑しながら優しく云つたが、その樣子にはどことなく惡憎(をぞう)の色が見えた。
 で、義雄は、お綱の心になほ理解を與へて置く必要があると思ひ、言葉をつづけ、
「たとへば、あなたがたの家庭に就て云つて見ても」と云ひかけると、
「わたしのうちのことは」と、お綱は笑ひながらさへぎつて、「どうでもよう御座んすから──」
「なアに、奧さん、まア、お聽きなさい」と、義雄は平手で空(くう)を打ち、「別に惡く云ふのではないのですから。──若しあなたがいつも所帶じみた風ばかりしてくすんでゐるとすればです、──實着な有馬君だからそんなことも滅多にあるまいが、──どうしても、たまには充分色氣のある樣子をして自分に向つて貰ひたいと思ふことがないではなからう。」
「‥‥‥‥」勇はにこ/\ツとして、煙草を煙管につめかける。それが、もツともだが、さう適切に義雄から自分の心をうがたれたくはないと云ふ樣子であつた。お綱もにこついて、所天(をつと)の顏を瞥見したが、
「そりやア無理です、わ。」恨めしい樣子をしたかの女の心持ちを義雄は分らないでは無かつた。かの女は如何に家兄の失敗の爲めに自分の家が零落してからかたづいて來たとは云へ、この七八年を、同じ北海道に於て、こんなみじめな状態で送るつもりではなかつた。結婚さへ承諾すれば、望み通り東京の學校へ轉任運動をして、やがては都の生活をさせて貰ふ條件であつたのが、一向その條件が行はれないで日を送り、年を送るうちに、子供は一人も二人も出來たけれども、所天(をつと)の俸給はその割合ひにはあがつて行かない。その上、相變らずこの寒僻地の好かない生活をつづけてゐるのが、かの女には一生の過ちの如く見えて、自分の身を餘り安賣りしたのだと思はれてならないが、日本婦人の常套思想なる運命主義からして、何事も運命だとあきらめてゐると云ふことは、この前に、かの女は義雄と勇との前で語つたところだ。
「奧さんも亦考へて御覽なさい、娘であつた時の樣な色目を今使へますか?」と、かう義雄につツ込まれた時は、然しかの女もむツとして、「あなたのお好きな藝者ではありませんし、子供のある身で、さう、いつまでも、だらしなくもしてをられません。」輕蔑した樣な、然し恨みのある樣な、義雄には方々の家庭に於てしばしば出くわして親しみのある口調で、お綱は返事した。
「田村君の意見はなか/\正直で、眞實なところがあつて」と、勇は下向き加減の首を動かしながら、「僕等もそこまで行きたいのだが、──處世上だ、ね、──處世上さう率直にやつてゐられないのだ。第一、生活問題の壓迫を感ずるから、ね。」
「さうだ、それも大問題であるから、ねえ。」義雄もそれ以上は云ふまいと、口をつぐむ。
「何はともあれだ、ね、お綱」と、勇は細君の機嫌を取る調子で云つた、「田村君に一杯あげる支度をしな。」

 

 有馬君だって、あなたから色気のある様子をして向かって欲しいって思っているんじゃないですか? というド直球の言葉を聞いた勇の反応がおもしろい。「勇はにこ/\ツとして、煙草を煙管につめかける。それが、もツともだが、さう適切に義雄から自分の心をうがたれたくはないと云ふ樣子であつた。」とある。図星だったわけだ。

 その勇の様子を横目で見て、お綱は、「そりやア無理です、わ。」と言う。この描き方が素晴らしい。映画とか演劇にしたいワンシーンだ。というより、こんな感じのシーンが小津映画にあったような気がする。

 「そんなことは無理だ。」という返答は、義男に向かってのものではなく、夫たる勇に向かっているのだ。どうして「無理」なのか、その理由が、義男には分かる。お綱は、自分の結婚を「一生の過ち」だとして諦めていることを義男は彼女から聞いて知っているだけでなく、勇もまたそれを知っているのだ。それを知っている勇はどうしたいのだろう。もう一度、妻の若々しい愛情を取り戻すために、一念発起して金持ちになるのか、それとも、夫婦間の愛情は自分もあきらめて他の女へと向かうのか、それとも、生活のためになにもかも妻のように諦めるのか、それがはっきりしない。結局は、今のままだろう。それが「處世上さう率直にやつてゐられないのだ。第一、生活問題の壓迫を感ずるから、ね。」という言葉の意味するところだ。

 それが分からない義男ではないから、「それ以上は云ふまいと、口をつぐむ」わけだ。そもそも、そんなに金の余裕のない有馬に世話になる義男に有馬を非難する資格はない。

 夫婦というものは、ほんとに難しいものだ。夫婦の愛憎の姿を、こんなにもリアルに素直に描いた作家は、そうはいないだろう。

 今、泡鳴と平行して、志賀直哉の『暗夜行路』あたりを読んだとしたら、いったいどういう印象をぼくは持つだろうか。興味深いところである。しかし、そんな道に迷い込んだら、ここに戻ってこれそうもないから、この五部作を読了するまでお預けにしておこう。

 

 

 

岩野泡鳴『泡鳴五部作(3)放浪』その4   2018.8.13

 

 義男は、東京へ置いてけぼりにしてきたお鳥のことが忘れられない。お鳥からは、何通も手紙が来て、お金を送ってほしいと訴える。お金がないので、蚊帳も買えず、毎晩蚊に噛まれて寝られませんなどという文言もある。

 義男は、有馬夫妻に、これまでのお鳥とのいきさつを細かく語るが、夫の勇にも、妻のお綱にも、同情というものがない。

 

「そんな女はゐない方が奧さんの爲めによいでは御座いませんか」と、お綱は云ふ。
「つまり、女といふ奴ア薄情なもの、さ」と、勇は斷定してしまふ。
 然し義雄が醉つてゐながらも目の前にあり/\と思ひ浮べられるのは、出發の際お鳥が上野まで見送つて來て、いよ/\汽車に乘り込むといふ場合に、プラトフオムで、人々とかけ隔つてゐるすきを見て、
「わたしは、もう、一生あんたばかりを愛します。親類もなく、友達もないと同樣寂しく待つてゐますから、早く歸つて來て頂戴、ね」と、その聲は顫へてゐながらも、いつにないしツかりした、はツきりした、積極的に情の籠つた言葉を發したことだ。
 それから、また自分が二等客車の窓から、これが暫くの別れだといふ意味で、手をさし出すと、お鳥はじろ/\とあたりを見まはしてからまたその手をつき出し、義雄の思ふ存分に握らせたことを思ひ出す。
 そんなことまでは義雄も語らなかつたが、
「あれまで熱心になつてゐたものが、僕の云つてやつた難局を少しでも辛抱し切れないとは不埒極まる、さ」と、渠は勇に猪口を勸めながら云ふ。
「然し」と、勇はその猪口を受けながら、「君が女を持たなければならないとすりやア、この難局を切り拔けてからの方が、つまり、いいぢやアないか? 難局を控へてゐながら、女に支送りしようなどと考へるのが贅澤、さ。」
「そりやア、僕もさう決心してゐる、さ。ただ僕がまだ未練があるのだ。──考へると、可愛さうでもある。」義雄は風呂敷包みの中からお鳥のよこした手紙の一と束を取り出した。

 

 夫婦でも、人前で抱き合ったりすると、警察にとがめられる時代だ。夫婦でもないものが、たとえホームの別れでも、手を握り合うことすら人目をはばからねばならないというのは切ない。

 勇は、実直な教師だから(教師だからといって実直とはかぎらないけど)、この「難局」と「女」は両立しないから、「難局」を乗り切ったら「女」に仕送りすれないすればいいと、常識的なことを言うわけだし、お綱にいたっては、「そんな女はゐない方が奧さんの爲めによいでは御座いませんか」と、「そんな女」と「奥さん」の位置関係を崩そうとしない。「そんな女」がどんな女で、「奥さん」がどんな女かということに対する想像力も、したがって同情もないのである。

 お鳥から来た何通もの手紙を束にして義男は持っていて、そのこと自体が、義男のお鳥にたいする「情愛」を証している。その手紙を有馬夫婦に読ませたか、あるいは読んできかせたすると、夫妻はそれを義男の「のろけ」ととって牛鍋を奢れとからかったりする始末なので、義男はズバリと聞いてみるのだ。

 

「僕ア聽きたいんだ」と、やがて渠(かれ)は口を開き、「全體、あなたがたはこの手紙でどう思ひます?」
「どう思ふとは?」
「女に就いて、さ──?」
「そりやア、あなた」と、お綱が引き取つて、「とても」と北海道流の副詞で力づけ、「お氣の毒な方だとお察し申します、わ。」
「君が棄てるのも可愛さうだが」と、勇は猪口を取つてまた義雄にさし、お綱に酌をまかせながら、「一緒になつてゐるのも亦可愛さうだよ。」「ところが」と、義雄は受けた猪口を下に置いて、「どツちにしても、可愛さうでも何でもないのだ。──全體、年の行かない割合に、喰へない女だ。覺悟をしてかかれば、アヒサンの樣な毒藥を不斷隱して用意してゐたくらゐだから、どんなことでも平氣でやれる奴、さ。今の手紙も、全く信じて讀めば、少しも疑はれるやうなところがない代り、ちよツとでも皮肉に見りやア、後ろにあやつり手がゐるとも見える。少しでも金を取つて逃げようといふ手段だらう──加集といふ男がまだ關係してゐるとすりやア、口錢(こうせん)取りのやり繰り手、話上手な策略家だから、ねえ。」
「逃げてしまへば、もう、責任はその男に歸するのだから、なほ更ら結構ぢやアないか?」勇が思ひ切れと云はないばかりに云ふのを、義雄は心で情けなく思ひながら、──否(いや)、寧ろ自分の心を解して呉れるものはこの家にもゐないと觀念しながら、──
「そりやア、それツ切り、いくら手紙で事情を云つてやつても、向うからの便りがないのだから、僕もさツぱりして、思ひ殘りがなくなつたわけだが、どうせ僕には女が入用だから、矢ツ張り氣心の分つたものをつづけてゐる方がいいから、ねえ。」
「ですから、奧さんのところへ御歸りになつたら──」と、お綱が云ふ。
「いや、女房のところへは、失敗を囘復した後にも歸りません。」
 かう云ふ話のうちに酒は終つて、飯になつた。
 義雄は肉にカイベツのあしらひを、北海道の涼しい夜風と同樣、初めての如く珍らしく思つたと同時に、香の物代りに出てゐたカイベツ並に枝豆の糠味噌漬けを甘(うま)いと感じた。


 どこまでいっても平行線だ。義男のお鳥に対する複雑でねじくれ曲がった、それでいてどこまでも純情な「愛」は、夫婦の(あるいは人間の)真の愛情の追究を諦めてしまった夫婦にはまったく理解されない。この「すれ違い」は、ほんとうによく描けていて、心にしみる。

 夫婦のことは誰にも分からないというけれど、ほんとうに、人間ひとりが何を考え、何を感じているかなんて、相手が妻だろうと夫だろうと、子どもだろうと、親友だろうと、何だろうと、決して分かりはしないのだということが実感として感じられる。だからこそ、自分はなんでも分かったふうな気になって、他人さまのあれこれに、「利いた風な口」をきくのはやめたほうがいいのだ。

 人間というものは、お互いに心の底から理解しあうことなどできないのだという「絶望」が、実は人間関係の基本であろう。そこに深く絶望しているものほど、他人に対してほんとうの意味で「やさしく」なれる。他者に対する「気遣い」というものは、そこからしか生まれないのだ。

 それにしても、珍しく義男(泡鳴)は、気弱になっていて、お鳥への思いを、勇がぜんぜん分かってくれないことを「情けなく」思う。そして、「自分の心を解して呉れるものはこの家にもゐないと觀念」する。この家にもいないし、この世界にもいない。これが義男の「絶望」だ。けれども、その義男にとって、格別な感動を与えているのが、北海道の自然であり、食べ物だったという、この最後の部分は、とてもいい。

 そういえば、この「とても」という副詞が「北海道流」だという記述は面白い。「とても」という言葉は、「とても私にはそんな大それたことはできません。」などというように、オシマイに否定表現を伴って使うのが本来だったが、いつからか、「とてもかわいそう」などというようになった。その起源が、この記述によれば、北海道にあったということになる。というか、義男が「北海道流」だと感じたわけで、興味深い。

 またここに出て来る「カイベツ」というのは、「キャベツ」のことで、当時は、まだ英語の読みが北海道では「キャベツ」として定着していなかったということらしい。

 

 

岩野泡鳴『泡鳴五部作(3)放浪』その5   2018.8.23

 

 友人の有馬勇の家に転がり込んだ義男は、新聞記者の島田氷峰の家を訪ねる。マジメな勇は新聞記者との付き合いをほんとうは嫌がっている。どうもこの頃の新聞記者というものは、ろくなもんじゃないと思われていたようだ。ゴロツキという言葉も最近ではとんと聞かないが、新聞記者なんてゴロツキ同然だといった「偏見」が、つい最近まであったように思う。マジメな新聞記者には申し訳ないが、そうした職業的偏見は社会の随所にみられる。

 ことは新聞記者だけじゃない。なかでもぼくが自分の職業だからとりわけ敏感にならざるをえないのが「貧乏教師」という言葉に見られるような教師に対する偏見だ。

 この小説でいえば、有馬勇がまさにその教師だが、その「小物」ぶりが嘲笑的に描かれているし、主人公の義男自身だって、教師をやっていたわけだが、話題が教師になると、「もとはと云へば、矢張り教師根性を出して、自分等の俸給の上り方が遲いの、少いのとこぼし合ひ、土曜日の來るのを待ち兼ねたり、冬期休暇や夏期休業の近づくのを指折り數へたりしてゐた。」などと自嘲的に描かれるのが常である。

 これはなにも泡鳴に限ったことではなくて、正岡子規にも教師へに侮蔑にみちた表現があるし、第一田山花袋の代表作が『田舎教師』という、考えればヒドイ題だ。

 栄光学園に在学中も「オレはこんなところの田舎教師で終わりたくないんだ。」などと生徒の前で広言する嫌な教師もいたし、その当の教師から、都立高校から母校へ戻ったときに、面とむかって「なんだ、山本、おまえ、都落ちしてきたのか。」と冷笑されたこともある。都立高校時代に、文学部志望の息子の母親と面談したときには、「文学部に行ったって、教師ぐらいにしかなれませんからねえ。」と真顔で言われたことすらある。普段温厚なぼくでも(笑)、ちょっとつつけば、はらわたの煮えくりかえるような思いの百や二百は(おおげさか、、)すぐに飛び出てくるのだ。

 職業に貴賎はないとはいうものの、偏見は根強い。

 島田は、金持ちの知り合いに、「新聞記者の樣なきたない商賣などはよして、おれが資本を出してやるから、お前の考へ通りやつて見い」と言われて、小さな出版社を起こしたのだが、まだ雑誌を出すまでには至っていない。

 さて、ある日、義男は有馬の家に帰ろうとして、ふと島田の家を訪ねようと、札幌の通りを歩いていると、焼きもろこしを売っている。


 左りに曲れば有馬の家へ行くのだ。然し渠は右に曲つて、氷峰の家へ向つた。例の鐵工場からは、かん/\云ふ音が聽えて來る。渠は今更らの如く生(せい)の響きを感じた。そして、それと同時に、悲痛孤獨の感じがもとの通り胸一杯に溢れて來た。
 工場とすぢかひになつてゐる角に、葉の大きなイタヤもみぢが立つてゐる。その太い根もとに、焜爐の火を起して唐もろこしを燒き賣りする爺さんがゐる。店の道具と云つては、もろこしを入れた箱と焜爐とだけである。
 こんな簡單な店を、義雄は、昨夜も、町の角で澤山見たが、なかには、林檎をもかたはらに並べてゐるのがあつた。渠はもろこしの實が燒けて、ぷす/\はじけるそのいいにほひを、昨夜、醉ひごこちで珍らしく思つた。今、爺さんの獨りぼツちでそのにほひをさせてゐるのがなつかしくなり、何とはなしにその前へ行き、燒きもろこしを二穗ばかり買つた。
 それを以つて實業雜誌社へ行くと、氷峰は今歸つたところで、茶の間で朝飯を喰つてゐる。
「何を買つて來たんぢや?」
「燒きもろこし、さ。」
「好きなのか?」
「なアに、うまさうだからよ。」義雄は一粒つまみ取つて口に入れたが、直ぐに二穗ともほうり出し、「にほひの香ばしい割合に、うまくない。」
「とても、うまいものか?──まア、飯を喰ひ給へ。」
「わたし好きよ」と、膳の用をしながら、お君さんの言葉だ。
「ぢやア、あげませう」と、義雄が二つともさし出す。
「燒きもろこしは」と、氷峰は微笑しながら、「東京の燒き芋の樣に、女の好くもの、さ。」
「女に好かれるにいい、ね」と答へながら、義雄も氷峰のそばで膳に向ふ。
 お君は二人の給仕をしながら、嬉しさうに、もろこしを一粒一粒喰つてゐる。そして二穗とも坊主になつてしまつた頃、二人の食事も濟んだ。

 

 今では、お祭りなんかの定番の「焼きもろこし」も、元はといえば北海道のものだったのかもしれない。この「焼きもろこし」に、醤油は塗ってあったのだろうか、ちょっと気になる。

 お君は、その「焼きもろこし」を、「一粒一粒喰つてゐる」とあるのがおもしろい。義男も食べるときには、「一粒つまみ取つて口に入れた」わけで、今のようにかじるわけではない。しかし現在「焼きもろこし」を一粒ずつ食べる人を見ることがないのはどうしてなのだろうか。いや、まだ実際にいるのだろうか。まあ、どっちでもいいことではあるが。

 この「お君」というのは、島田の妹ということになっているのだが、実は島田の兄の娘で、兄からはずっと一緒に育ったんだから結婚しろと命じられているらしい。島田は断っているが、それにしても姪との結婚は当時は法的に禁じられていなかったのだろうか。

 姪との関係といえば、すぐに島崎藤村が思い出されるわけだが、時代的にこの話とそれほど隔たっていないから、姪との関係は世間的にはわりとあったことなのかもしれない。

 しかし、表向き兄と妹となっている島田とお君を見て、義男はなんか変だなあと直感する。このあたりの義男の勘は鋭い。ある日、たまたま島田の家で寝てしまった義男の枕元で、お君が別の若い女と話しているのが聞こえてくる。その部分。

 

 ところが、夢うつつの樣にひそ/\話が隣りの室から聽えて來る。
「兄さんは、もう、出たの?」
「出たのよ、直き歸ると云うて。」
「ゆうべはどこへ行つたの?」
「お客さんと一緒にお女郎買ひ。」
「いやなこと、ねえ」と二人のくす/\笑ひ。
「その代り、ゆうべだけは夢を見なかつたでせう?」
「矢ツ張り、見たのよ。島田さんとわたしとが何か面白いお話をしてたら、大きな、堅い物があたまの上へ落ちて來るんでせう──それが火の出る樣にがんとわたしのあたまに當つたかと思うたら、目が覺めたの。」
「ぢやア、またお父(とつ)さんに蹴られたの、ね。」
「わたし、恥かしくもあるし、つらくもあるし、どうしようと思ふのよ。けさ、起きたら、直ぐお父さんが、いつもの通り、『色氣違ひめ、またうはことを云やアがつた』て叱るんでせう──」
「お父さんの足もとにあたまが行く樣な寢かたをしてをるから、行けないのだ、わ。」
「仕やうがないんですもの、それは──家が狹いんだから。」
「では、夢でのお話はおよしなさい。」
「わたしだツて、さうしたいことはありません、わ。けれども、夢に見るんですもの。」
「毎晩、癖になつたの、ね。」
「さう、ね。」
「わたしなら、いやアだ。」
「わたしもいやです、わ。」
「お鈴さんがそれをいやになつたら、兄さんをいやになるわけ、ね。」
「兄さんは好きよ、好きだから夢にまで見るんでせう。」
「色きちがひ、ね、あなたは?」
「あら、いやアだ、お君さん、兄さんにそんなこと云うたらいやよ。」
「云うてやる、云うてやる。」
「いやアよ、いやアよ。後生だから、そんなことは──」
「兄さんだツて、嬉しがるだらう。」
「後生だからよ。」
 段々、かういふ聲が大きくなるに從つて、義雄の眠りは覺めて來た。氣がつくと、いつのまにかどてらのかかつてゐるのを發見した。社員はすべて出拂つて、ここに誰れもゐない。
「靜かにおしなさい、お客さんに聽えるよ。」
「え? ゐるの?」
「寢てゐるの。」
「聽えやしなかつたでせうか?」
 その後は何か分らない小聲だ。
「お鈴、お鈴!」南隣りの家から呼び聲が聽えると、
「はい」と、大きな返事をして、一方の話相手は裏口から出て行つた樣子。
「お君さん、あれはどなた」と、義雄が聲をかけた。
「あなた、聽いていらツしやつたの?」
「目がさめたので、すまないが、聽えましたよ」と云ひながら、渠はから紙を明けて茶の間へ行つた。

 午前も、もう、そとは日の高いてか/\した光に照らされて、ほこりと共に暑い風が這入つて來る。
 お君さんは横になつてゐたからだを坐わり直して、
「あれはお隣りの娘さんです。」
「お鈴さんといふの?」
「ええ。」
「氷峰君に大層惚れてゐるんだ、ね。」
「さうよ」と、お君は答へて微笑したが、その顏には少しにが/\しい樣子が見えた。
「いくつ?」
「わたしに一つ下。」
「では、十九? 十八?」
「そこらあたりでせう。」
「太つてゐるの? 痩せてゐるの?」
「太つてをります、わ。」
「美人?」
「‥‥。」お君は笑つて返事がない。やがて、「去年の末、わたしの留守に、兄さんの病氣を親切に介抱してくれたさうです。」
「そして、氷峰君はその人を細君にするつもりですか?」
「さア、どうですか」と、かの女はにが笑ひして、心配さうな、しをれた顏つきをしてゐる。その樣子が、どうも、當り前の兄妹のする樣子ではない。「兄さんが病氣でぐツすり眠つてをりますと、隣りの室からこツそり出て行つて、お鈴さんは兄さんの顏を見てをつたことが度々あるさうです。」
「誰がそれを見たの?」
「うちのお母さんが──その時、お母さんもついてをつたので、寢たふりをしてお鈴さんの樣子を見てをつたのだ、て。」
 義雄はこの二人の女のどちらが氷峰の物であらうかと考へた。そして、
「あなたは氷峰君の本當の兄弟ですか」と聽くと、
「本當は、わたしのお父さんと兄弟だから叔父さんになるのですが、子供の時から一緒にをりますので、どうしても、兄さんとしか云へないの」と、かの女は答へて、多少元氣を囘復した樣だ。
「何のことだ、まさか持統天皇ではあるまいし」と、然し、義雄は心でつぶやいて、その問題には興がさめてしまつたので、丁度その時膝の上にあがつて來た玉といふ猫をだいて、その喉をごろごろ云はせながら、獨り言ともつかず、「ああ、まだ眠い」と云つてあくびをする。
「ゆうべのお疲れでせう」とかの女はにやり笑ふ。
 そこへ氷峰が歸つて來た。


 この後、島田氷峰から、実は、お君は、オレの兄の娘で、結婚しろと言われている云々の話が出て来るわけである。

 それにしても、義男は聞きにくいことをズケズケと聞く男だ。「太つてゐるの? 痩せてゐるの?」とか、「あなたは氷峰君の本當の兄弟ですか」とか、普通ならとても聞けない。泡鳴という男もまた、そういう男だったんだろう。

 「まさか持統天皇ではあるまいし」というあたり、持統天皇のことをすっかり忘れていたので、面食らったが、そういえば、持統天皇は叔父にあたる天武天皇と結婚したのだった。こうしたフレーズは、泡鳴独自のものではなくて、当時は一般に使われていたのかもしれない。時代は明治の末だが、今より「自由」な言論の空気を感じるのはぼくだけだろうか。

 二人の若い女の会話を聞いて、さてこの女たちのどっちが「氷峰の物であらうか」などとのんきなことを考え、事実が明らかになると、急に興ざめしてしまう義男も、なかなかおもしろい男だ。

 二人の会話から、お鈴の家の事情(父との関係、家の広さなど)から、二人の揺れ動く心まで、実に鮮やかに伝わってくる。こうしたところを読んでいると、泡鳴の小説は落語に似ているなあと思うのだが、どうだろう。泡鳴は落語好きだったのだろうか。

 


岩野泡鳴『泡鳴五部作(3)放浪』その6   2018.8.31

 

 この『放浪』には、樺太での体験談のようなものがリアルに語られているわけではないが、こんな部分がある。


 一體、漁業などは、考へて見ると投機業の一種とも云ふべきで、どか儲けのある代り、一度しくじれば、もう、立てない。義雄は、樺太で、ナヤシへ行つた時、或大漁業家が失敗して逃げた跡に、給料を貰へなかつた夫婦者が、國へ歸る費用もない爲め、むしろでちひさいテントを造り、そのなかに見すぼらしく寢起きしてゐるのを見たことを思ひ出して、それを他の二人に語る。
「北海道でもそんなことは珍らしくない」と、氷峰が云ふ。
「急に出來た身代は急に倒れるのが北海道の原則らしい」と、呑牛(「高見呑牛」という記者)は平氣だ。「僕等はその間にあつて、多少のうまい汁が吸へるの、さ──丸で火事場泥棒も同樣、さ。」
「は、は、は」と、氷峰は笑つた。呑牛は目をぱちくりさせた。


 ここにちょっと書かれている夫婦のことを、泡鳴は後に『人か熊か』という短篇にしたのではなかろうか。これが、ぼくが読んだ泡鳴の最初の作品だ。最後は、奥さんが熊に喰われてしまうという何とも後味の悪い小説だったが、樺太の様子がよく描かれていた。

 平野謙が、泡鳴の自然描写もなかなかのものだと言っていたことを思い出す。

 樺太ではないが、当時の北海道の自然や、社会状況なども、生き生きと描かれている。写真などと違って、その土地の息づかいまで聞こえてきそうな気がする。たとえな、こんな箇所。

 

 札幌は石狩原野の大開墾地に圍まれ、六萬の人口を抱擁する都會で、古い京都のそれよりも一層正しく、東西南北に確實な井桁(ゐげた)を刻み、それがこの都會の活きた動脈であるかの樣に強い感じを與へる。そして、その脈は四方ともに林檎畑や、もろこし畑や、水田、牧草地などに這入つて、消えてしまふ。
 その間に散在して、道廳を初め、開拓記念に最も好箇な農科大學や、いつも高い煙突の煙りを以つて北地を睥睨する札幌ビール工場や、製麻會社や、石造りの宏大な拓殖銀行や、青白く日光の反射する區立病院や、停車場、中島遊園、狸小路、薄野遊廓などがある。
 一體に、大通りの南北ともに、停車場通りを中心として、西部の方が賑やかだ。賑やかで、繁榮な部分には、開拓者が切り殘した樹木はないが、それでも、他方のアカダモ、イタヤ、白楊などの下を通つて來る人の心には、至るところ、さう云ふ樹木の影がつき添つて離れない樣な氣がする。
 さういふ街々を縫つて、かの百姓馬子は青物を呼び賣りしてゐるし、また人通りのある角々には、例の燒きもろこしの店が出てゐる。
 義雄は、それが何となく嬉しく、なつかしくなり、この百姓馬子に出會ふ限り、またもろこしの香ばしいにほひがしてゐる限り、札幌は自分の心に親しみがあつて、自分の滯在地と云ふよりも、寧(むし)ろ自分の故郷であるかの樣な安心の思ひがして來た。


 東京のゴチャゴチャした町中に生活していた泡鳴は、ことのほか、札幌の自然が気に入ったようだ。中でも樹木には格別の興味があったようで、こんな記述を読むとその博識に驚嘆してしまう。

 

 中島遊園は樹木を以つて蔽はれ、なかに丸木ぶねやボートを浮けた大きな池がある。その池の周圍に二三軒の料理屋がある。市中のはづれだから、繁盛は夏分に限つてゐる。冬になれば、何か特別な目的がなければ、このはづれまで數尺の積雪を分けて來るものはないと云ふ。
 そこに、立派な西洋建ての北海道物産陳列所があつて、その附屬として、北海道林業會出品の寄せ木家屋が建つてゐる。用材はすべて同道特産の木材である。床の間は山桑のふち、ヤチダモの板、イタヤ木理(もく)の落し掛け、センの天井。書院はクルミの机、カツラ木理の天井、オンコの欄間、トチの腰板、ヤシの脇壁板。床脇はシロコの地板、サビタ瘤の地袋ばしら、ヤチダモ根の木口包み、オンコの上棚板、ブナの下げづか。縁側はトド丸太の桁、アカダモの縁(えん)ぶち、並びに板、蝦夷松及びヒノキの垂木(たるき)。座敷仕切りはクルミの欄間、ヒバ並びにガンピの釣りづか、ケンポナシの廊下の縁ぶち。鴨居並びに天井板はすべて蝦夷松。敷居は蝦夷松、五葉の松の取り合せ。西洋間の窓並びに唐戸の枠は蝦夷松、額ぶちはヌカセン、その天井板二十五種、腰羽目板二十二種は、以上に擧げた種類の外に、シナ、ナラ、シウリ、ヱンジユ、櫻、槲、朴の木、ドロ、山モミヂ、オヒヨウ楡、ハンの木、アサダ、サンチン、カタ杉、檜の木などだ。
 義雄は、樺太トマリオロの鐵道工事並びに新着手炭坑を見に行つた時、山奧の平地のセン、イタヤ、ドロ、アカダモなどの間を切り開いて、そこに大仕掛けの炭坑事務所を新築してゐる、その新木材の強いにほひを嗅ぎ、深山のオゾンに醉はせられた樣な、如何にもいい、而も健全な心地を自分の神經に受けてからと云ふもの、木材に非常な趣味を持つて來た。且、また、樺太に歸れば、見積りした計畫通り、鱒箱や鑵入れ箱の製造かた/″\、木材をも取り扱つて見ようとする考へがある。だから、氷峰と共に池のふちや陳列所の庭を散歩し、この出品家屋のなかへ這入つた時は、何よりも熱心にその用材の種類を注意して見た。

 

 カニ缶なんかより、材木屋か家具屋でもやったほうがよかったんじゃないかと思うほどだが、それにしても、いくら木材が好きだからといって、小説の中にこれだけの固有名詞を書き込む必要はないわけで、興味のない読者はうんざりしてしまうだろう。泡鳴は、書きたいことを書きたいだけ書いて、売れるかどうかを細かく考える人じゃなかった。それなのに、どうしてオレの小説は売れないんだろうと悩んでもいたわけで、その変がこの時代の小説家の面白いところなのかもしれない。

 話の筋としては、あまり展開はないが、樺太からお鳥に書いた義男の手紙、あるいはお鳥が樺太の義男へ書いた手紙の一部が、実は届いていなかったことがわかり、道理で話が合わないわけだと義男が愕然とする場面がある。義男はお鳥の「羽二重」のような白い肌が忘れられないし、彼女への「愛」は消えてはいない。

 一方で女房の千代子からは、もう帰ってくるな、家は処分する、というようなつっけんどんな手紙が来る。千代子への「愛」は、完全に消えているが、離縁まではなかなかこぎ着けない。

 挙げ句の果てに、幻影をみたりする。

 

 お鳥はどうしてゐるだらう? あすは、當地へ來たことを知らせる手紙を出さう。あんなおこつた手紙はよこしても、實際、最後の別れに誓つた通り、獨りで辛抱してゐるだらうか? それとも、再び取り返しのつかない樣に、誰れか男を拵らへただらうか? あの白い、いい羽二重肌を他人に渡してしまひたくないが──
 からだは、けふの長い散歩で、充分疲れてゐるが、神經が興奮してゐて、なか/\眠られない。そして、北海道といふところは、僅かにまだ二三日の滯在だが、その間に見聞したところだけを以て見ても、淫逸、放縱、開放的で、計畫をめぐらすにも、放浪をするにも、最も自由な天地らしい。金も容易(たやす)く儲かれば、女も直ぐ得られる樣に思ふ──北海道は若々しい!
 お鳥がこのままになつてしまふのなら、誰れか別なのをここで見つけよう──
 ゆうべで前後三囘「これでおなじみになりました、ね」と云つたその本人の姿が目の前に浮ぶ──遊女風情だと云つて、もし愛がある段になれば、女房にしてもかまはないではないか──
 すると、北海道──と云つて、札幌だらうが──に人間はひとりもゐず、内地のとは違つて樹木ばかりがあつて、それをすべて自分獨りで占有してゐる樣な氣がして來る。農科大學の廣い構内でもない。その附屬博物館の庭でもない。中島遊園でもない。
 どこかとほつたことがある樣な道の眞ン中に立つてゐる楡の樹かげから、脊の高いおほ廂(びさし)のハイカラ女が出て來る。お鳥の樣だが、然しお鳥ではない。
 相談がつくものならいいがと、何氣なく立ちどまると、かの女はこちらの心は知らないで、同じ歩調をつづけて行つた。
 ふと夢ではないかと氣がつくと、決して夢ではない。然し考へてゐたことは、すべて否定的にすべり拔けて行つた。ランプが明るい爲め、眠られないでうと/\するのだらうと思つて、それを吹き消さうとして脊を腹に轉ずると、
「まだ起きてをつたのか」と、氷峰は出しぬけに云ふ。
「うん」と云つた切り、あかりを吹き消すと、闇と無言のうちで、義雄はます/\神經のランプが照らされ、さま/″\の思ひになやんだ。


 「北海道は若々しい!」という義男の感慨は、「内地」では、たとえ夫婦でも町中で抱擁したりしていると警官がに叱責された当時を背景に考えると、納得できるものがある。「自由の天地」と思われたのだ。

 カニ缶の事業も、失敗したも同然なのだが、義男は、その「失敗」にちっとも落ち込まない。

 

 義雄は思想上蛇を大好きなのだ。蛇が直立すれば人間だらうとも思つてゐる。然しそれはその自然のままの状態に於いてばかり考へてゐられるのであつて、もし一たび直立しかけると、もう、自分の敵であるのが分つた。自分はいつ、どこでも、自分の自由を自在に發展するといふ考へを妨げられたくない。
 といふのは、樺太旅行中に、同行者の一人が眞蟲(まむし)に噛まれて、希望通りの同行をつづけることが出來なかつた。その時、眞蟲は横長の體を直立させて、義雄にも飛びかからうとした。渠は然しそれを、手に持つてゐた熊よけ喇叭(汽船の代用汽笛であつた)を以つてなぐり倒し、それから踏み殺して、
「敵對するものは何でもうち滅ぼして行くのが自然だ」と叫んだ。そして、その敵手の性質、勢力、惡意をも自分の物としてしまふのが自己自然の努力だと思つた。蛇も自分の内容の一部だと見られる樣になつてこそ、嫌ひでなくなるのだ。
 かう云ふ追想やら思索やらに耽りながら、義雄は建物の前の方へまはり、何とも知れない大木に行き、月光がちら/\とその繁葉(しげば)をかき分けて漏れる樹かげの石に、勇と共に腰をかける。
 渠は身づからこの夜の氣を吐いてゐる樣な心持ちになり、その氣の中に浮ぶ東京、樺太、失敗、失戀、札幌の滯在等が、目がねでのぞく綺麗な景の樣に、自分の世界と見える。そして、かたはらの勇が、
「何とか恢復させてやりたいもんだ、ね、その──君の──あの事業を」と云ふのを聽いて、「事業は外形によつて拘束されない」と、義雄は答へる。そして、今組みあがつてゐた刹那の現實世界をうち毀されてしまつた氣がする。
 この時、眼界の不透明な(と渠は考へられる)友人を厭な蛇だと思つた。


 蛇が「思想上好きだ」なんて、意味がよく分からないが、この文章の前に「ダニ」に喰われた体験が書かれていて、それに対する嫌悪との対比で「蛇」が出て来る。しかし、「蛇が直立すれば人間だらうとも思つてゐる。」なんて、独特な感性すぎて、ついていけない。

 けれども、その後の記述は、意味が取りにくいけれども、妙に心をひくものがある。

 「蛇も自分の内容の一部だと見られる樣になつてこそ、嫌ひでなくなるのだ。」という一文。自分に敵対するもの、自分が嫌悪を感じるもの、それらいっさいを、「自分の物としてしまう」ことで、自分はそれを「嫌いでなくなる」──つまりは、克服して、愛することができるようになる。

 失敗も、失恋も、すべてが「自分の世界」なのだ、という認識。「目がねでのぞく綺麗な景」のようだという認識。そんな認識を持つことができるのなら、ぼくらは、ずいぶんと大胆に自由に生きていけるはずだ。泡鳴は、まさに、そういう「自由」を生きたのだ。

 それなのに、友人の人のいい教師たる勇は、「何とか恢復させてやりたいもんだ、ね、その──君の──あの事業を」と「同情」して言う。その言葉に義男はがっくりくるのだ。「今組みあがつてゐた刹那の現實世界をうち毀されてしまつた氣がする」のだ。

 義男は「現実世界」というけれど、むしろ一般的に言えば「観念世界」だろう。「何、夢みたいなこと言ってやがるんだ。」と一蹴される世界である。けれども、義男にはそれこそが「現実世界」であり、その世界を、義男は一生懸命「組み上げて」いるのだ。そのことを、世俗にどっぷりつかってしまって、そこから出るすべもない勇は理解しない。理解できない。だから、義男は、「眼界の不透明な(と渠は考へられる)友人を厭な蛇だと思つた。」のだ。

 「限界の不透明な友人」というのも分かりにくいが、「どこまでも自分の信念にそって突き進んでいこうとしない友人」ほどの意味だろう。

 義男は、そんな勇と次第に距離をおくようになり、新聞記者の氷峰のほうに居着くことなっていく。

 

 

 

岩野泡鳴『泡鳴五部作(3)放浪』その7   2018.9.5

 

 義男の北海道での放浪は続く。友人宅を転々としながら、東京から送られてくる原稿料でなんとかその場をしのいではいるが、こんなことをしているより、いっそ、東京へ戻ろうかと考える。しかし、北海道でなんとか、一仕事できないものかとあがくのだ。

 

 夏期休業も終はり、毎朝八時から勇が學校へ出かける樣になつたのを幸ひ、渠の書齋に引ツ籠つて、義雄は筆を執つてゐるのだが、ここにはプラトンはない、イムマニユエルカントはない。スヰデンボルグはない、エマソンはない。渠等はすべて義雄の古い感化者である。そして今では渠の思想上に於ける敵である。渠は渠等をそばに控へて、その向うを張るのを正直な誇りとしてゐるのだ。渠等のないのは、渠に取つて、何だか心寂しい樣だ。
 然し、その代り、反對的にでもカントやエマソンをそばに控へない放浪の身でありながら、今持つてゐる思想をまとめ得られるのは、自分の精神と神經とに獨創の情想が出來てゐるからであると、自分で心丈夫に思ふ。
「自分の悲痛な思索は自分の直接經驗だ。」かう思ふと、自分のこれまでに經て來た幾多の戀、信仰、詩人的努力、家庭の迫害、親不孝、妻子を虐待、友人の離散、失戀、懷疑、絶望、破壞、墮落、自殺未遂、戀愛的事業、生の自覺、悲哀苦痛の現實的體得など、それからそれへと變轉滑脱して來た間にも、自分は終始一貫してゐるのを、自分ながら痛切に感じた。

 

 義男は、もともと評論を書いて世に出たのだ。彼がいま北海道で懸命に書いているのも、評論である。自分の「直接経験」を、ひとつの思想にまで高めていこうという強い意志が義男、つまりは泡鳴にはある。

 自然主義の作家といえば、「無理想・無解決」といわれ、ただただ淫乱な生活に溺れている様をそのまま小説にしているとか、世の中の醜悪な部分だけを好んで書いているというような誤解が当時からあり、義男も、蕎麦屋(当時の北海道では、ほとんど淫売宿を意味していたようだ。仙台では、「汁粉屋」だったという。)に行ったときも、遊女たちから「あれが、自然主義だ。」とささやかれるなんて場面も出て来る。この記述は、場末の売春婦にまで「自然主義」という言葉が浸透していたことをうかがわせるもので、いかに、「自然主義」の流行がすさまじかったかが分かって興味深い。

 けれども、すくなくとも、泡鳴の場合、かつてキリスト者であった面目は躍如としたものがあって、どんなに落ちた境遇にあっても、その「直接体験」を通して、自らの独自な思想を築き上げようとしていたのだ。

 義男は、既に雑誌に掲載されている「田村義男批判」に対する駁論(反論)を書いているのだ。前の引用部分に直接続いてこう書く。

 

 そして、筆などを以つてまどろツこしい論戰をするよりも、寧ろ自分その物を今のまま論敵の前へほうり出した方が手速い證明だと考へる。
 然しただ、東京と札幌と、海山何百里の隔てがこの論戰の筆を渠に執らせるのだ。渠は渠の鑵詰事業に熱中したと同じ覺悟を以つて、構想をめぐらす。
「執筆の意志」といふ第一項を書いてから、駁論全體の項目を先づ數へあげて見た。「新文藝に平行すべき新哲學いまだ實現せず」とか、「論者こそ却つて抽象的」とか、「主義と理想との新解釋」とか、「論者とカライルと自分との相違點」とか、いふのを列擧しながら、「現實は自我の無理想的活動」とか、「解決は死、無解決は生」とか、「活動は苦痛なり」とか、「強烈生活は優強者の勝利に歸す」とかいふのに至ると、項目だけを擧げたのに對しても、自分は既に自分の現在の本體を活躍させ得たといふ樣な痛みをおぼえる。痛みは即ち自分の眞摯な快樂であつた。
「戀や事業は自己の活動であつて、手段、目的ではない。」かう考へて、目的を持つから失戀、失敗が見えるのだが、自分が、強烈に活動してさへゐたのなら、失敗も成功もあるものではない。そして、今の自分ほど強烈な活動を心身におぼえることは少いと思ふ。
 渠のこの現實的幻影は二日ばかりつづいた。そして、三十枚ほどまで原稿が進んだ。題名も「悲痛の哲理」とすることにきまつた。然しその進捗は殆ど忘れてゐたものの記憶を再起したので途絶されてしまつた。
 渠は段々の順序に從ひ、家も忘れ、妻子も忘れてゐる。樺太の事業をも忘れてゐる。そしてまたお鳥をも殆ど忘れてゐた。ところが、かの女から、突然、「スグイクカネオクレ」といふ電報が來た。
「暫らく便りもしないで、人を馬鹿にしてゐやアがる!」かう考へて、義雄はそこに心のないほどに冷淡だ。そして、自分のやつてゐることを返り見た。

 

 「目的を持つから失戀、失敗が見えるのだが、自分が、強烈に活動してさへゐたのなら、失敗も成功もあるものではない。」というのは注目すべき言葉だ。これがいわゆる泡鳴の「刹那主義」ということになるのだろうが、「刹那主義」という言葉が連想させる、「そのときそのときが気持ちよければいい」といったような安直なものでないことがよく分かる。

 自己の生命を「強烈に活動」させること、それが大事だ。それさえできれば、「失敗」も「成功」もないのだということだ。そう割り切って生きていければ、ずいぶんと生きやすいだろう。できれば、その思想をぼくも我が物にしたいと痛切に思う。

 けれども、やはりそれは「現実的幻影」に過ぎない。彼をとりまくあらゆる「現実」が押し寄せてくるのだ。

 義男は、だんだんと有馬勇の家族からも疎まれ、氷峰の家にも居づらくなり、ある夜とうとう、どこにも泊めてもらえるところがなくなって、それならあそこしかないと、薄野遊郭に行く。

 前々夜に「初回」として登った遊郭。そこで出会った敷島という遊女。美人ではないが、「小づくり」なところが気に入った女。義男は前夜は「裏を返した」(二度目にあったという遊郭での言葉。落語ではお馴染み。)。そして、その夜は3晩目で、そうなれば、遊女のほうも「色男ができた」ということで、まわりの遊女からも祝われるほどの「なじみ」だ。その遊女敷島への複雑な思いを描いて、『放浪』は終わる。

 

 義雄の判斷では、この種の女等は殆ど戀しいといふことを知らない。朝、目がさめて、客を送つてしまへば、その日の晩はまた同じ人が來るか、來ないか分らない。たとへ戀しいと思つても、その人が來なければ、それツ切りのことだ。
 客の歸り姿を送つて、また來て呉れればいいと思ふことはいくらもあらう。然し、その代り、門を一歩離れてしまへば、自分の心はもう屆かないといふ經驗を幾度もしてゐる。
 渠等の人生は曲輪(くるわ)の中に限られてゐて、そこを離れたものはすべて死でもあらう、虚無でもあらう。ただ男を自分のそばに引きつけてゐる間が、その商賣でもあり、生活でもあり、生命でもある。そして、その男が好きであり、可愛くあれば、その間だけ眞實の生活がある。
 かう思ふと、義雄はこの種の女が自分の主義をちひさく實現してゐる樣に考へられる。曲輪以外は死または虚無の空想界である。無經驗、無思慮の女は、一般の俗習家等の空想界に求める理想と同樣、頼むに足らない死人同樣の戀を追うて失敗する。然し本當に思慮あり經驗ある女は、全く空しい戀などに一時の安心を求める樣なことはしないで、自己の苦界に密接して來た戀をばかりその場の實質ある糧にする。だから、握つた間はその男を離さない。これが却つて最も切實な、最も遊戲分子の少い愛であらう。
 自分に對する敷島が、然し、そんな切實な愛を持つてゐるか、どうだか分らないが、それと同じ樣な心持ちにはなれる稼業だと思ふと、その樣子振りから言葉つきに至るまで、義雄にはそれと取れないこともない。
 そして、義雄があがつた時、女は渠の送つた雜誌を店で繰りひろげ〈注:義男は、前もって、自分の評論の載った雑誌を女に送っておいたのだ〉、渠の書いた談話を讀んでゐたところであつたと語つた。そして、女は少し取り澄ましながら、
「僕はこれまで文學者であつた。これからもやツぱり文學者でつづくのだ」と、暗誦して見せる。その眞意が分つてゐるか、どうか知らないが、ただすら/\と、雜誌に出た義雄の文句通りを暗誦し、そのあとに書いてあることまでもお浚(さら)ひするのを聽くと、渠は自分がかの女に半ば了解された樣な氣がして、自分を今遠く離れてゐてよく理解して呉れないお鳥などよりは、ずツと親しみがある樣だ。
 この苦界に辛抱してゐるほどだから、こちらと一緒になつてこちらの悲哀と苦痛とを共にすることもできないことはなからう。いツそのこと、この小づくりな女を引かせることができるなら引かせて、義雄は自分のまだ飽かない燒けツ腹のこの放浪を──無理に東京などへは歸らないで──かの女と一緒につづけてもかまはないと思つた。

 

 自分の人生を、遊郭の女の人生のありかたと比較し、そこに根本的な共通点を見出すのだ。遊女にとっては、「永遠の愛」などない。あるのは、「一夜限りの男との関係」だけだ。けれども、時間を引き延ばしてみれば、「一夜限り」は、また「この世限り」でもある。いずれにしても、別れは必然だ。そう泡鳴は考えるのだ。

 見事な思索の「成熟」である。

 


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